読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

足るを知る

  知足、足るを知るということはとても大切な考え方であると思う。足るを知ろうとしなければ人の欲というのは際限ないでしょう。一度満足しても、その満足感が切れると再び求めてしまうものです。未来の欲について憂うのではなく、今の足るを知ることが大切であるとは思います。思うのです、しかし、同時にもし今の足るを知ることができたなら、次はその足るが失われることを憂いてしまうのではないかと思うのです。

 手に入れられないよりも失うことのほうが苦しみは大きいです。失ったときにまだ手元も残っているもので足るを知ることはできるのでしょうか。今のところ私にはできそうもありません、以前にはあったものがないというのは大きな喪失感を残すでしょう。持つことに意識が向いてしまうのでしょう。持つ時はその安心感からであることに意識を向けられるでしょうが、その安心感がなくなると、であることから持つことに意識が向いてしまうのです。

 長期的に見れば、また足るを知るということを行うことができると思いますが、短期的、つまり失った時には足るを知るというのは私に限ると不可能に思えるのです。短期的である必要がないのか、私がまだ足るを知るということを十分に理解できていないのか、はたまた足るを知るというのは絵空事であるのか、前者2つであることを祈ります。

 

 

ーーー話したいことーーー

 人に寄り添う。相手に寄り添う。これってどういう意味なのか。物理的に言うと、体を近づけることになるけど、そういう意味で用いられるのはあまりないと思う。多くは、心に寄り添うといった精神的なものだ。しかし、心に寄り添うってどういう意味なのか。考えてみれば、うむ、よくわからん。結局これは自己満足ではなかろうか。いくら他の人から寄り添えていると思えても本人が寄り添われていると感じなければまったくもって無意味。(寄り添っていると思っている人自身が寄り添ってあげられていると満足しているだけだ)しかし、この考え方は何か非常に悲しい考え方のように思えてあまり好きではない。自分で言っておいてなんなのだ、という感じだ。

 

 悪人正機説というのがありますが、あの悪人は普段聞いてイメージする悪人とは少し違うのではないでしょうか。悪人正機説の悪人は 、人が生きているだけで悪を積んでいるということを理解している(人が生きるためには必ず他の生命を犠牲にしているため)人間のことをいっており、別に犯罪人であろうがなかろうが関係ないのではないでしょうか。つまりそういう意味では私を含め多くの人々は、日々を生きているだけで悪を積んでいるなどとは考えていないから、自分を善人であると思い込んでいるのではないか。つまり、悪人正機説の悪人とは、犯罪者を指すわけではないわけで、おれは悪人であるから救われるのだという考え方は間違っていると思うのです。