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山月記を読んで

 タイトルの通り山月記を読みました。初めて読むわけではありませんが、以前読んだ時と印象が全く違いました。前回読んだのは高校生の頃、教科書にのっており、授業でよんだのです。其の頃は、人が虎になってしまうとは変な話であるな、と其の程度の解釈でした。本当にそれ以上でもそれ以下でもない印象だったのです。しかし、今回は全く違いました。(なぜなのでしょう、じっくり読んだからでしょうか。なぞです。)

今回は、虎になってしまった李徴の気持ちに自然となってしまい、虎になってから袁慘に会うまでの一年間をどう過ごしていたのだろうか、野生の心を持ちながらも人間の心を未だに持つつらさとはどんなものなのだろうか、消えてしまう方が楽であるはずなのにそれに対して感じる恐れ、家族のことより先に詩(自分という証になるのでしょうか)のことを優先してしまう人間らしさ?、人間の頃、自分の恥や怖れが自分を磨くことを疎かにしてしまったという後悔、これらのことについて考えさせられました。

 

まず、袁慘にあうまでの一年間のことを想像してみます。まず一番大きな部分は人食い虎であることではないでしょうか。人の心を持ちながらも、その心がないときに人を襲って食していたのです。どれだけ心苦しいことでしょうか。加えてその苦しみを共有できる友がおりませんし、表現さえもさせてもらえません。発散というものができなかったのではないでしょうか。 それでも彼は自殺することはありませんでした。その生活に慣れてしまったということではないでしょう。ここにも自分が消えることに対する恐怖があったのではないでしょうか。他人を殺しているのは自分ではなく虎であるという意識もあったのかもしれません。 彼のつらさは私には想像もつかないものです。私にも辛くなる時がないわけではありませんが、そんな時は誰かと話したり、一人ぼっちになってみたり、人が多い所に行ってみたり、と様々な選択肢がありどれでも自由に選べます。しかし、彼にはその選択肢がない。加えて、その苦しみが普通ではないのですから、そのつらさは私には本当にわかるものではないでしょう。

 人の心がでてくる時間が次第に減っている。これは虎になって人を殺してしまう彼にとって非常に幸福なことであるはずです。しかし、そこには避けようもない恐怖がある。なぜなら、自分が消えてしまうことにほかならないから。自分が消えてしまったところで世界がどうにも変化するまいことは李徴自身もわかっているはずです。しかし、それでも自分がこの世に存在を何も残すことなく消えてしまうことは恐怖であるのでしょう。

 家族の心配を話すことより、先に自分の詩を残そうとしたシーンがありました。非常に魅力的である気がしました。なんとも言えませんが、何か人間らしさのようなものを感じました。やはりそこにも自己の存在を残すということが大きな要因となっているのでしょうが、それが家族より先にくるのがすごい。(別に家族がどうでもよいとかそんなことではないでしょう)

 虎になってしまった原因について推察しているところでは、その原因を自分の恥、恐れにあると言っています。実際にはそれが原因であるとは思えません。それよりも虎になって、もう人間に戻れない。これは人間であった頃にしておけばよかったという後悔でしょう。なぜ自分は進むべき道に向かって努力できなかったのか。それは、失敗を恐れたからであり、自分の恥の部分を隠そうと必死になってきたからです。人とあまりかかわらなかったのも誰かに恥の部分を見せたくなかったからでしょう。李徴の自分を馬鹿にする癖もそれによって自分が傷つくのを避けていたのではないでしょうか。袁慘が友であれたのは、そんな李徴でさえも受け入れられる懐の深さを持っていたからでしょう。

 

山月記を読んで色んなことを考えさせられました。中でも自分の恥、恐れによって今できることを行えないというのは現在の自分にも少なからず当てはまっていることのように思えます。できない理由を考えれば、できなかった時は其の理由のせいにできるし、できたときには自分はすごいと思えます。そこには、失敗というものがありません。ありませんが同時にできる可能性が低下しています。そこまでして自分は失敗を避けたいのか、失敗して傷つけばどうなるのか。そのようなことを考えさせられました。そこまで長い文章であるとは言えないこの作品ですが、その中には幾つもの考えさせられることがありました。

 

 

ーーー話したいことーーー

雨が降っていた。いつもは傘を持っていかないけれど、なんとなく持ってゆく。傘が私を守ってくれたので、べたつくことはなかった。雨もやみ、帰りの電車。私が家についたとき、あいつは私のもとを離れていた。だれか別の相手をみつけていてくれればいいなと思う今晩。