何のためにやってるのか

何のためにそれを行うのか、この問いはある時には大きな意味を持つがある時には無意味であると思う。何によって意味が見いだされるのかというと、その行為が何かをなすためのものであるのか、そうではないのか、ということである。何か別の目標があり、それを達成するためにある行為を行う場合、その行為は何のためなのか、と考えるのは非常に有効な手段である。どこに向かっているのか考える必要があるからだ。ある行為を進んでやりたいわけではないが、勉めて強いる必要がある。この場合、自分は何のために、と考えることで進む方向が明確になる。
 
一方、それ自体が目的である場合、そこに意味を問うても意味などないことがほとんどであるから、体の、心の求めるがままに進めてゆくのがよいのではないか。例えば、ある行為(登山、散歩、釣りなど)自体が好きな人になぜそれが好きなのかと問うても好きだからということしかないのではないだろうか。(確かに、様々な理由を上げることができるが結局それは好きということから生まれた一つの理由に過ぎないのではない)
 
しかし、ここでひとつ重大な疑問が生まれる。それは、何のために私は生きるのかという疑問には意味がないといっていいのかどうかというものである。私達が生まれた時、私達は生きる意味というものを持って生まれるわけではないだろう。つまり、生きるということ自体が目的になる。しかし、本当にそれでいいのだろうか。何かが変だと思う。何が変だと言うことができないのが悔しいが、おそらく、生きる意味を問うことは非常に有意義なものであるはずなのだ。それは自分の生を嘆くために問うのではなく、ただただ問うのである。それにより、後に目的をつけることがあるのではないか。つまり、人生というのは、生きながらその過程でその意味というのを考えるものなのではないだろうか。
 
ーーー話したいことーーー
何かすべてのことに対して吹っ切れたような心地がする。とてもすがすがしい。これが気持ちの問題で、すぐに憂鬱になったりするのかは分からないが、それはないと思っている。何が吹っ切れたのか、おそらくもう迷ったらできることはすべてやってしまえと思えるようになったことにある。絶対に後々後悔するとわかっていて、人生はそういうものであるから耐えようという考え方をやめることにしたことにある。うーん、今はとってもすがすがしい。また、この決意によって大変なことはしばしば起こるのかもしれないが、今のところ後悔はない。