自分の人生は自分で決めている

 自分が自分の人生を決めなきゃならない。以前にもブログでそのようなことを書いた気がしないでもないです。それでも今回、同じような内容を書こうと思い至ったのは、自分の人生は自分で決めなきゃならない、という以前に、自分の人生は自分で決めている、ということに気がついたからです。

 どういうことかといいますと、私達はいつも何かを選択しています。私の身近な事でいえば、どこの大学に行くのか、どこに就職するのか、一人暮らしするのか等です。そういう選択は私は自分で、真剣に考え、悩み、恐れに立ち向かい、選んでいくべきだと考えています。ここで、自分で選択しない場合のことを考えてみましょう。例えば、家族や友人に自分の選択を任せた場合を考えます。そうしますと、将来的にうまくゆけばその家族や友人に感謝するでしょうし、あまりよくないと思えば彼らを責めたり、責任を彼らに押し付けるでしょう。皆が皆うまくゆくことはないといえるので、あまりよくない場合に話を限定します。そうすると、ここで自分はヒトのせいにしているのではありますが、よくよく考えてみると、そのヒトに任せるという選択を行ったのは自分自身であり、その責任は自分にあることがわかるのです。つまり、どれだけ責任をヒトに押し付けようとも、それは自分自身に返ってくることになるのです。

 その事実と向き合わない限り、他人によって自分の人生が決まっているという呪縛から開放されることはなく、その先の人生を自分で決めることが困難になるのではないでしょうか。ということで、そもそも自分の人生は自分で選択しているわけでありまして、どうせなら自分の納得ゆく選択を自分で唸りながらでも、苦しみながらでも、楽しみながらでも、決めてゆくのがいいのではないかと言うのが私の提案です。(もちろんそこに家族や友人の助言は合ってしかるべきものでしょう。私が問題に思っているのは、自分で考えることをせず、すべてを彼らに任せようとする行為についてなのです。)

 

ーーー話したいことーーー

文体について

その日の気分によって文体がです・ます調になったり、だ・である調になったりあるいはまざることがあります。(できるだけ最後のものにはならないように注意はしていますが、なっていたら申し訳ないです。)

 

思っていることと行動

どんなにそれが良いことと思っていてもそれを実行することが困難であることはないだろうか。例えば、私は電車の席を譲るくらいなら幾らでもできるつもりだが、重い荷物を持ちながら階段をあがるおばあちゃんなどを手伝うことが今のところできていない。心のなかではやりたいと思っているのにである。(やらなければではなく、やりたいなのだ)けれど、なんだろう。言い訳のように聞こえるかもしれないが、恐怖があって、相手は求めていないのではとか、気分を害してしまうのではとか、考える必要のないことを考えてしまうのである。これはなぜなのか。自分がそれをやりたくないのか、そんなことはないと思う。思うのだが思うとしか言えないことがさらに自分を悲しくさせる。 

なぜかはわからないけれど、何となく分かることがあります。それは思っているだけでは行動につながらないということ。いくらやりたいと思っていてもできないことは誰にでもあるのではないでしょうか。あれやりたいなぁ、って思ってもいろいろな言い訳が頭に浮かんできてできない。そんな時はほんと、どうにでもなれの精神でやってみるしかないです、それでダメダメなら今後やらなければいいし、うまく行けば次はこれまでよりもっと気楽に行動できていく。だからとにかくエイヤー!という気持ちで行動することがいいのです。自分にできるのは、少しづつでも行動できることを増やしていくこと、それとできる行動を継続することこの2つだけだと思います。