いつもいる自分自身

 森博嗣の小説「喜嶋先生の静かな世界」をはじめて読んだ時、時間を忘れるほどに夢中に読んでしまった。そしてこの本に引用されている「日本の弓術」オイゲン・ヘリゲル著が気になって仕方がなくなった。もともと、森博嗣のこの本に出会ったのは偶然であった。図書館で返却ボックスに「科学的とはどういう意味か」森博嗣著が置かれており、たしかに科学的とはなんなのだろう、そう思って手に取ったのである。そしてその中に、先程挙げた彼自身の本が引用されていたのだ。

 こう考えると、何かすごい出会うべくして出会ったような気がしないでもない「日本の弓術」。読んで思うことは、わかるようなわからないような、ただ率直に言えば「ようわからん」である。私も武道を学ぶ身であるので、少しは話しがわかるのではないかと期待しないでもなかった。実際はなにもわからなかったのである。(まだ武道をはじめて2年足らずということが唯一の救いかもしれない) 言っていることはほとんど何も分からなかったのではあるが、しかしこの本を読めば読むほど、自分という存在がいかに自分自身につきまとっているのかということが見えてきた。(自分が自分であるのは当たり前なのではあるが、それでも自分がいない時というものが私にはほとんどない)

 どうすればこのような状態に持っていけるのか、そんなことがわかれば苦労はしないのだが、苦労してもよいので経験してみたいものである。これは、何かに集中して時間を忘れるようなものと一緒なのか、睡眠中の意識がないことと一緒なのか、どちらも違うのではないかと想像はするものの、一体どんなものであるのかは検討もつかない。

 

ーーー話したいことーーー

 春がやってきた。なにを持って春の到来を感じるかは人によって違うことだろう。桜というのが一番イメージしやすいものではないだろうか。私自身も春の到来を桜で感じることができた。しかし、それより何より気温で感じることができた。とにかく昼間はあつい、半袖でも汗を少しかく。(私は汗っかきなのだ。電車の中で他の人々がスーツに着られてあつそうにしているのを見るとそれだけで汗が出てくる気がする。)

汗っかきではあるものの私は暑いのが好きである。(一つだけあまり好きになれないのは脇汗がはっきりわかることぐらいである)というより、寒いことが嫌いなのかもしれない。寒いと布団から抜け出せない、抜け出せないと何も行動できない、行動できない自分に対して嫌気がさす。このような循環が冬がやってくるたびにおこっているのではないか、私はそう推測している。

ひとつだけ季節外れの私の知恵をあげておこう。(すでに誰かが先に提案しているかもしれないが)

風邪を引かないように私達は手を洗う、夏の日なら水が心地よく感じられるのだけれど冬はどうだろうか。そう、冬になると手を洗う回数、そして丁寧度が低下する経口にあるのだ。(私の場合です)回数を増やすのは、あまり必要なことではない。基本的に家から帰った時とトイレの後に手を洗えれば回数については問題ないだろう。問題は丁寧に洗えているかどうかだ。冬は寒いので、指先だけで済ましてしまいがちだ。(私だけじゃないはず)それを防ぐために考え出されたのが、水を使わず泡でまず手を洗ってしまう作戦である。泡でとにかく、手を洗う。泡は冷たくないので何の抵抗もなく洗うことができる。そして泡がついてしまえば落とすしかなく、落とすには水で手の隅々までしっかり流さねばならない。これでしっかりと手を洗うことができるのである。