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幸福と不幸

 
幸福は不幸がなければ引き立たない、感じられないものだろうか。私はそうは思わないし、思いたくない。例えば、食事を考えてみたらどうだろうか。美味しい料理はまずいものがないと引き立たないだろうか。まずいものを食うことで美味しいものがさらに美味しくなるのだろうか。そうではないだろう。美味しいものはもとから美味しい、引き立てられるまでもなく、うまいのだ。ではどういうものがまずいものによって引き立てられるのだろうか。それは普通の料理ではないか。まずくもなく、うまくもない、うまいといえないことはないがうまいと言おうと思えない料理。そんな料理であれば、まずい料理を食べたあとに見れば、食べればとっても素敵な料理に見える。これと同様に幸福にも、幸福と幸福であると言えなくもないが幸福とは言えない幸福、この二種類があるのではないだろうか。(より細分化することもできるはずだ)そして、前者の幸福は、不幸を必要としない。(私は悲しみを不幸に属しているものではないと考えている。悲しみは幸福のセットなのである。ある瞬間の幸福はずっと自分とともにあるのだが、それを実際に再体験することはできない悲しみを持つことになるからだ。)
そして、不幸と比較して得られる幸福が後者の幸福なのである。
 
どちらの幸福が良いとかはない。ただ前者の方が普遍なものであると思うし、不幸と比較するというのは私からすると何か残念な感じがする。これまでの自分の不幸と現在を見比べてよりましな生活ができていると感じ幸福を感じるより、比べるまでもなく今の生活に幸福を感じるほうが何か良い気がしないだろうか。
 
他人の不幸と自分とを比較して、自分は不幸かもしれないがあの人よりは不幸ではないから幸福であると考える。それよりは、私はわたしであり、私を受け止めている、満足ではないが納得しており、これからできることをやっていくから幸福である、こちらのほうが何か良い気がしないだろうか。
どちらがよいなんで僕には言えない。どちらにも手助けしてもらいこれまで生きてきたから。ただ前者をなるだけ増やしたいと考えているのは事実である。
 
ーーー話したいことーーー
アランの「幸福論」で感情をコントロールする方法が述べられていた。(正しくは情念である)意志の力は驚くほどの力を持っている、持っているのだが意志の力では感情に抗うのは難しい。だから一度遠回りするのだ。意志の力で体を動かし、無理に運動したり、無理に笑ってみせる。そうすることで、情念を追い出すことができるらしい。確かにそうだろう。笑えば、悲しみを考えるのは難しくなる。すぐに実践できるのにとても効果のある方法だと思う。
 
今回の記事にある重大な問題は「幸福とは、不幸とはなんなのか」ということについて私が理解していないことにあるだろう。わからないが、わからないなりに幸福、不幸について考えて書いてみた。だから、もしかすると前提が異なっているかもしれないなー、と思わないでもない。