共産主義は理想論か

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共産主義について書きましたが、実ははっきりと共産主義を理解できているわけではありません。というより全然わかっていない気がします。まぁでも書きたくなったので書きました。少し長いですが読んでいただければ幸いです。

 

共産主義は私達を幸福にするのだろうか。そもそも、共産主義とは、資本主義を超えた理想的な社会のことだ。理想的というと曖昧だが、全てが平等な社会のことだろう。ここで問題となってくるのは、平等とは何なのか、ということである。平等がわかっていなければ、共産主義という考え方が良いのか、悪いのかどういうものなのかでさえ考えることができない。そこでまず、平等とは何なのかについて考えていく。

 

平等には大きく分けて2つあると思われる。結果の平等と機会の平等である。結果が平等とは、皆の得るものが等しいということである。機会の平等とは、何かを得る、体験する、学ぶことなど様々なチャンスがみな等しく持つということだ。共産主義で求めなければならない平等は後者であると私は思う。なぜなら、人は一人ひとりが個性を持ち、異なることが特徴である。それが素晴らしいことであると私は思う。しかし、結果の平等を求めると、その個性によって生まれるはずの別々の結果がすべて統一されてしまう。これは、個性が失われたことと同義である。だから結果の平等ではなく、機会の平等でなければならないのだ。

 

しかし、ここで大きな問題が生じる。(実際はここで生じているわけではない)それは、人が不満を持つ生き物であり、結果に意識がいってしまった人々は、その結果の違いに問題があると考えてしまう。平等のはずなのに平等を感じられないのである。ここに、共産主義の問題点がある。どうすればこの問題を解決できるだろうか。完全な解決は不可能だと思う。人間は考えてしまうものであるから、でも考えてもそれは違うと思い直せるのも人間である。だから、不可能ではあるが、全く不可能と言い切るのもおしい。

とにかく、この平等に関する問題を少しでも解決するにはどうすればいいか。すべての人が幸せについて考えることだ。(私は人が誰でも幸せを一番に望んでいると考える、それが表面に出ていなくとも、心の奥底では幸せを、助けてくれる人を求めているのだと思う)エーリッヒ・フロムの言葉に、To have or to be()という言葉が出てくる。持つことにこだわるよりも、そうであることに集中するべきだということだ。所有することはなかなか永遠につづくことが難しい、そのため必ず不幸が存在する。しかし、であることには、自分のあり方に集中する、いま、ここを真剣に生きていくのである。いま、ここを真剣に生き続けられたならば不幸になることはない。(ここは少し無理矢理だと自分でも思っています。また考えてみます)

私達がみな幸せとはなんなのか、と考えることで結果が大切でないと知る人が増える。それが唯一の解決策だろう。結果が大切でないという考えが正しいのか、それはわからない。どちらが正しいと思うかは、その人次第である。ただ、多くの人々は何も考えずに結果に幸せを求めていないだろうか。すなわち、幸せについて学べば、過程に幸せを見出す人の数が増える。それによって平等の問題は少し解決に進む。

 

あまりしっかりとした論理になっていない所が豊富ですが、突っ込みながら読んでいただければ幸いです。これを書こうと思ったのは、社会主義共産主義の違いを調べていた時、そもそも共産主義のようなものが果たして生み出せるだろうかと思い浮かんだからです。

(資本主義の問題点は、格差にあると思います。しかし、格差自体を私は問題だと思いません。大きすぎる格差、というより下流の方の機会がとても少ないことに問題があると考えます。)