たかが、されど

 世の中すべてのことに対して、たかが~といえるのではないでしょうか。しかし、その次に来る言葉は、されど~、となるのだと思います。何事についても私自身が関わることは広大な宇宙の中では非常に小さなことになります。地球規模のことでさえ小さなことであると言えるのではないでしょうか。しかし、それと同時に私にとってそれがとても大きなことであり、たかがなどとは言っていられないことのようにも思えるのです。

 たかが人生、されど人生。たかがであることは確かに理解できる。でも本当に心からたかがと思えるのかというのが問題です。今の私には思えません。されど、というより、やはり私の人生なのです。だから、存分に満喫したいし、やりきったと思えるような生き方(どんな生き方をすればそう思えるのでしょうか、そんなことを考えながら生きている時点でそんな生き方はできないのかもしれません)をしたいと思うのです。

 

たかがということを知ることで、されどということがとても重要に思えてくるような気がします。人生って大変だと思うこと、と、たかが人生ではあるけれど(されど)この人生って大変であるなと思うこと、とには大きな差があるのではないでしょうか。

何が違うのか、それはあまりよくわからんのですが何か大きな差があるように思わずにはいられないのです。

 

 

ーーー話したいことーーー

 できないことをいくら嘆いたって仕方がない。私たちにはできることしかできないのだから。では何が大切であるか。一つは、やること。とにかくやるのである。もう一つ大切なことがある。それは、できることを見つけること。できることはできることであるくせに、もともとできるとは知らないものがある。できないことを見つけるのは案外簡単だ。なぜなら、やりたいことを一番簡単に最短距離でやろうとすると大概できないことがでてくるからだ。その時にできないことを嘆くのではなく、どうすればできるのかというできることを模索することが大切なのではないだろうか。

山月記を読んで

 タイトルの通り山月記を読みました。初めて読むわけではありませんが、以前読んだ時と印象が全く違いました。前回読んだのは高校生の頃、教科書にのっており、授業でよんだのです。其の頃は、人が虎になってしまうとは変な話であるな、と其の程度の解釈でした。本当にそれ以上でもそれ以下でもない印象だったのです。しかし、今回は全く違いました。(なぜなのでしょう、じっくり読んだからでしょうか。なぞです。)

今回は、虎になってしまった李徴の気持ちに自然となってしまい、虎になってから袁慘に会うまでの一年間をどう過ごしていたのだろうか、野生の心を持ちながらも人間の心を未だに持つつらさとはどんなものなのだろうか、消えてしまう方が楽であるはずなのにそれに対して感じる恐れ、家族のことより先に詩(自分という証になるのでしょうか)のことを優先してしまう人間らしさ?、人間の頃、自分の恥や怖れが自分を磨くことを疎かにしてしまったという後悔、これらのことについて考えさせられました。

 

まず、袁慘にあうまでの一年間のことを想像してみます。まず一番大きな部分は人食い虎であることではないでしょうか。人の心を持ちながらも、その心がないときに人を襲って食していたのです。どれだけ心苦しいことでしょうか。加えてその苦しみを共有できる友がおりませんし、表現さえもさせてもらえません。発散というものができなかったのではないでしょうか。 それでも彼は自殺することはありませんでした。その生活に慣れてしまったということではないでしょう。ここにも自分が消えることに対する恐怖があったのではないでしょうか。他人を殺しているのは自分ではなく虎であるという意識もあったのかもしれません。 彼のつらさは私には想像もつかないものです。私にも辛くなる時がないわけではありませんが、そんな時は誰かと話したり、一人ぼっちになってみたり、人が多い所に行ってみたり、と様々な選択肢がありどれでも自由に選べます。しかし、彼にはその選択肢がない。加えて、その苦しみが普通ではないのですから、そのつらさは私には本当にわかるものではないでしょう。

 人の心がでてくる時間が次第に減っている。これは虎になって人を殺してしまう彼にとって非常に幸福なことであるはずです。しかし、そこには避けようもない恐怖がある。なぜなら、自分が消えてしまうことにほかならないから。自分が消えてしまったところで世界がどうにも変化するまいことは李徴自身もわかっているはずです。しかし、それでも自分がこの世に存在を何も残すことなく消えてしまうことは恐怖であるのでしょう。

 家族の心配を話すことより、先に自分の詩を残そうとしたシーンがありました。非常に魅力的である気がしました。なんとも言えませんが、何か人間らしさのようなものを感じました。やはりそこにも自己の存在を残すということが大きな要因となっているのでしょうが、それが家族より先にくるのがすごい。(別に家族がどうでもよいとかそんなことではないでしょう)

 虎になってしまった原因について推察しているところでは、その原因を自分の恥、恐れにあると言っています。実際にはそれが原因であるとは思えません。それよりも虎になって、もう人間に戻れない。これは人間であった頃にしておけばよかったという後悔でしょう。なぜ自分は進むべき道に向かって努力できなかったのか。それは、失敗を恐れたからであり、自分の恥の部分を隠そうと必死になってきたからです。人とあまりかかわらなかったのも誰かに恥の部分を見せたくなかったからでしょう。李徴の自分を馬鹿にする癖もそれによって自分が傷つくのを避けていたのではないでしょうか。袁慘が友であれたのは、そんな李徴でさえも受け入れられる懐の深さを持っていたからでしょう。

 

山月記を読んで色んなことを考えさせられました。中でも自分の恥、恐れによって今できることを行えないというのは現在の自分にも少なからず当てはまっていることのように思えます。できない理由を考えれば、できなかった時は其の理由のせいにできるし、できたときには自分はすごいと思えます。そこには、失敗というものがありません。ありませんが同時にできる可能性が低下しています。そこまでして自分は失敗を避けたいのか、失敗して傷つけばどうなるのか。そのようなことを考えさせられました。そこまで長い文章であるとは言えないこの作品ですが、その中には幾つもの考えさせられることがありました。

 

 

ーーー話したいことーーー

雨が降っていた。いつもは傘を持っていかないけれど、なんとなく持ってゆく。傘が私を守ってくれたので、べたつくことはなかった。雨もやみ、帰りの電車。私が家についたとき、あいつは私のもとを離れていた。だれか別の相手をみつけていてくれればいいなと思う今晩。

共感から

  歌、詩、小説などの中に表現されている内容が自分のことのように共感できる作品がそこらじゅうにある。他の人はどうだかわからないが、私の場合、そういうものと出会った時、そうそうそういう気持ちなんだよ、って思う。と同時に、自分の共感者を見つけたような気持ちになって舞い上がってしまう。この舞い上がることがだめなのかもしれない。舞い上がった後に、共感できない部分まで自分の経験を当てはめてしまうのである。例えば、心の悲しみを表現した歌があったとする。その中の一部分に自分が共感できるところがあり、それによってその曲がとても好きになる。そして、何度も何度も聞くうちに自分の状況とは全く異なる状況を歌っている箇所でも自分の経験を無理に当てはめて、そうなんだよね、と同感してしまうのだ。さらにこのとき、自分の経験を無理に当てはめている自覚は皆無であるのでなおさら面倒なのである。

 自分が正しく見えていないことを意味しており、心を沈めて、自分の現状を見直せば大概間違った解釈であることは明らかなのである。しかし、その時の自分にはそれが真実であり、何も間違ったことはないと思いこんでいる。自分を曲に寄せているのである。

 

ーーー話したいことーーー

 今のところ人はいつか死ぬ。けれどあんまり自分が死ぬということについて考えることはない。死んでしまうとどうなるのか。今死んでしまうとしたら、どういう気持になるのか。そんなことを考え出すと、寝られなくなる。一秒でもムダにしてはいけないのだなって思えてくる。そして焦って何をすればいいのか考える。だけどででこない。そして、ムダってなんなのかって考え始める。でも答えはでない。

こういうようなサイクルを何度か繰り返している。毎回同じではないけれど、大筋は同じであって、結局何も答えが出ずに、もっとがんばろうという何を頑張るのかさえ明らかにせずに終わってしまうのだ。

さん、くん、ちゃん

 人の名前を呼ぶ時、その人の名前にあった呼び方が僕の中にはある。~さん、~くん、時には呼び捨てが一番あっている人もいる。ときには、どんな呼び方も当てはまらなくてあだ名がもっともよろしいこともある。しかしながら、この違いは何によって生まれてくるのであろうか。

一番大きな要素は、慣れというものだ。ある人をある名称で呼ぶ習慣が身につけばそれが一番その人にあった呼び方であると思ってしまう。はじめて呼んだ時はどれほど違和感があってもだ。

二番目の要素は、名前を呼ぶ側のこれまでの人生である。これまで自分がどう呼ばれてきたか、周りの人をどう呼んできたのか、これらによって決まってくる。

そもそもどうして名前の呼び方が様々あるのだろう。名字で呼ぶか、なまえで呼ぶかの二択は許すとしても、そこに、さん、くん、ちゃん、などといったものがついてくるのはなぜなのか。それほどまでに私達は自分と相手の立場を明確にしたいものなのだろうか。

 

ーーー話したいことーーー

花粉症がつらい。これが花粉症であるのかさえ謎であるのだが、フェキソフェナジンを飲んで症状が和らぐということはそういうことなのだろう。それに目の周りが朝起きると花粉だらけになっている点からもそうであると言えるだろう。この花粉症、もし自分の力で薬に頼らず治せるならばどうだろう。正直そんなことあるのかととっても半信半疑ではあるものの、運動、食事、飲料などに気をつかうだけで改善するとネットで書いていたのでやってみようと思う。もし花粉症が改善しなくとも、私の肉体には何らかの変化が生じるはずであるからそれだけで儲けものだ。問題は、運動、食事、飲料に気をつかう生活を続けられるのかということだけである。

終わりはない

世の中に絶対の真理というものがあったとして、人はそれを知ることができるのか。自分が真理だと思ったとき、自分自身はその先に何があるのかを追求することをやめてしまう。そして、もしそれが真理ではなく、真理への道筋であったとしたらどうだろうか。そして、もしそれが真理であってもそれが真理であるという保証というものを私達は得ることができないのではないか。
山登りについて考えてみればわかりやすい。ある山を登っている時、人はまだそこが山頂でないことがわかる。先に続く道がみえているからだ。そして山頂についたとしても、遠く先に見える山が今いる場所より高いことがわかり、一番高いところがここではないと知る。次に、そこに見えた山に登り、頂上につく。また、他にここよりも高い所があるかもしれない。もしなかったとしよう。そこは、一番高い山であると言えるだろうか。そうであるかもしれないし、そうではないかもしれない。その場所では、わかりえないことなのである。
 

今日の気づき

  知らない人と話すのがあまり怖くなくなった。沈黙が怖くなくなった。相手が自分を好んでいるかどうかをあまり気にしなくなった。なぜだろう。なぜかはまだ良くわからないが、これらのことが人間的に成長したといえる事だとは思えない。逆に後退していることであるのかもしれない。いや、成長も後退も我々のイメージによるものであるので、どちらとも言えないというのが正しいだろう。

 

以上で述べたこととほとんど関連はないのだが、今日あることに思い至った。それは、世の中の優劣、是非、賛否など様々な判断は自分自身から見たもの、社会から見たものであり、他の視覚から見た時それは私自身が下す判断とは全く異なるものになりえるということである。ここから何が言えるのか、それはいまいちよくわからない。言いたいことはあるが、自分の中ですでに矛盾点が生じてしまっているので、書くことを諦めたのである。

 

ーーー話したいことーーー

自分の心の状況がいまどんなものであるのか。これは、知ることが簡単のようで難しい。何によって、この心の状況が作り出されているのか。原因というものは簡単に見つかると思える。実際みつかるのだ。しかし、大きな原因にばかり目が行ってしまし、小さな原因の大きな集合体を見つけることができない。これによって、自分自身は大きく揺り動かされてしまうのであろう。

方法論はひとつの道筋

  何かをなすための方法論が世の中には数えだすとキリがないほど転がっている。その一つ一つに対して馬鹿らしいなどと思うことはない。考えるのは一つのことだけ、この方法は今の私に必要なのか、ということ。と言っても最近は方法論を調べることもなくなってきたような気がする。それよりも自分でこんなやり方はどうか、彼はどうやっているのか、というふうになってきている。

 

何にせよ、方法論について考える上でもっとも重要なことは、それがある目標を達成するための一つの方法に過ぎないということである。例えば、受験勉強には様々な方法論が挙げられている。その中のどれを選んだからと言って、合格が約束されるわけではない。絶対ということはない。私たちにできるのは、少しでも確率をあげること、そのために合格を信じて努力することだけである。(ここでの努力とは、ただがむしゃらに時間を使うことではなく、時間あたりの習得量を最大限にしようとすることである)そしてそのために、自分に合った方法論を選んだり、生み出すのが大切なのではないか。以上のことから方法というのは必要なくなれば捨ててしまえばいいし、変化させていって良いものなのである。

 

ひとつ難しいのは、ある方法論が自分に合っているのかの判別が非常に難しいことである。ある方法論を試した時、瞬時に結果が出なくとも、後々大きな成果が出てくることもある。しかし、これは続けたことから得られたことであり、初期の段階でこの方法を捨ててしまったり、変化させてしまえば大きな成果は得られないこともある。非常に難しい。できることは、ある程度はやってみること、そして絶対ムリだと思うものには取り掛からないことである。無理と思いながらやるより、できると思っているものを積み重ねるほうが効果は大きくなるだろう。

 

 

ーーー話したいことーーー

自分を偽っていることが結構ある気がする。例えば、自分が思っていることと反対のことを口に出していたりする。その後、なんで、って自問自答しても答えは返ってこない。これが一番苦しいことかもしれない。人に嘘つかれてもそれで終わるけど、自分の場合、ずっと後悔しちゃうものはしちゃうから。