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行動に対する意味づけ

 自分の人生に、あるいは自分の行動ひとつひとつに何か意味があるのだろうか。散歩をしている時このようなことがふと思い浮かんできた。気づけば私達は何かの行動に対して意味をつけようとしがちである。確かにある行動に意味がついていれば自分がその行動をしたことに対して何か罪悪感のようなものが生まれることはない。なぜかはわからないが、何の意味もないと思われるような行動には自分がさも悪いことをしているとでも感じさせる罪悪感、背徳感のようなものがある。しかし、実際に、意味があると思っているものでさえも意味があるのだろうか。意味を付ける必要はなく、ただそうであったから、ただやりたかったから行動した、そこに意味など必要なんだろうか。

また、もし意味付けをする場合にもその行動に意味をつけられるのは自分自身であるので、すべての行動に対して良い意味をつければ良いのではないだろうか。わざわざ悪いことをしていると考えて自分を追い込む行為が必要なんだろうか。そうしないと、何もできないのは何か虚しさを感じないだろうか。

私は最近、ブログを書き始め、日記をブログとは別に書き始め、また散歩もはじめ、次は座禅を始めようと考えているがすべてやりたいからやっていたり、やろうとしている。そこに意味をつけるとすれば、楽しいからである。それだけでいいのではないだろうか。

 

 

ーーー話したいことーーー

 昨日自分が正しいと考えていたことが翌日になると真逆の考えになっていたりする。私だけかもしれないが、人間の考えなんて全くあてにならんなと思う。しかし、ながら頼れるのはその人間の考えだけであるので少しでも変なところはないか、自分の考えは自分の視点から見て正しいのかを問うことにしている。(毎回、しっかり問えているわけではなく、気づいたときだけではあるが)

 

 今ハマっている小説は「人生逆戻りツアー」泉ウタマロ著である。イレーヌとおばあちゃんの話やクロードの少年時代の絵の話はなぜだかわからないが涙が止まらなくなる。(1日に3度は涙を流してしまう私なので、他の方が読んでも何も思わず読み通してしまう可能性大です!!)

いつもいる自分自身

 森博嗣の小説「喜嶋先生の静かな世界」をはじめて読んだ時、時間を忘れるほどに夢中に読んでしまった。そしてこの本に引用されている「日本の弓術」オイゲン・ヘリゲル著が気になって仕方がなくなった。もともと、森博嗣のこの本に出会ったのは偶然であった。図書館で返却ボックスに「科学的とはどういう意味か」森博嗣著が置かれており、たしかに科学的とはなんなのだろう、そう思って手に取ったのである。そしてその中に、先程挙げた彼自身の本が引用されていたのだ。

 こう考えると、何かすごい出会うべくして出会ったような気がしないでもない「日本の弓術」。読んで思うことは、わかるようなわからないような、ただ率直に言えば「ようわからん」である。私も武道を学ぶ身であるので、少しは話しがわかるのではないかと期待しないでもなかった。実際はなにもわからなかったのである。(まだ武道をはじめて2年足らずということが唯一の救いかもしれない) 言っていることはほとんど何も分からなかったのではあるが、しかしこの本を読めば読むほど、自分という存在がいかに自分自身につきまとっているのかということが見えてきた。(自分が自分であるのは当たり前なのではあるが、それでも自分がいない時というものが私にはほとんどない)

 どうすればこのような状態に持っていけるのか、そんなことがわかれば苦労はしないのだが、苦労してもよいので経験してみたいものである。これは、何かに集中して時間を忘れるようなものと一緒なのか、睡眠中の意識がないことと一緒なのか、どちらも違うのではないかと想像はするものの、一体どんなものであるのかは検討もつかない。

 

ーーー話したいことーーー

 春がやってきた。なにを持って春の到来を感じるかは人によって違うことだろう。桜というのが一番イメージしやすいものではないだろうか。私自身も春の到来を桜で感じることができた。しかし、それより何より気温で感じることができた。とにかく昼間はあつい、半袖でも汗を少しかく。(私は汗っかきなのだ。電車の中で他の人々がスーツに着られてあつそうにしているのを見るとそれだけで汗が出てくる気がする。)

汗っかきではあるものの私は暑いのが好きである。(一つだけあまり好きになれないのは脇汗がはっきりわかることぐらいである)というより、寒いことが嫌いなのかもしれない。寒いと布団から抜け出せない、抜け出せないと何も行動できない、行動できない自分に対して嫌気がさす。このような循環が冬がやってくるたびにおこっているのではないか、私はそう推測している。

ひとつだけ季節外れの私の知恵をあげておこう。(すでに誰かが先に提案しているかもしれないが)

風邪を引かないように私達は手を洗う、夏の日なら水が心地よく感じられるのだけれど冬はどうだろうか。そう、冬になると手を洗う回数、そして丁寧度が低下する経口にあるのだ。(私の場合です)回数を増やすのは、あまり必要なことではない。基本的に家から帰った時とトイレの後に手を洗えれば回数については問題ないだろう。問題は丁寧に洗えているかどうかだ。冬は寒いので、指先だけで済ましてしまいがちだ。(私だけじゃないはず)それを防ぐために考え出されたのが、水を使わず泡でまず手を洗ってしまう作戦である。泡でとにかく、手を洗う。泡は冷たくないので何の抵抗もなく洗うことができる。そして泡がついてしまえば落とすしかなく、落とすには水で手の隅々までしっかり流さねばならない。これでしっかりと手を洗うことができるのである。

 

これが行動力なのか

 元気のある時はいい、その元気を使って自分の好きなこと、好きなことをなすために必要なことをすればよい。それでは、元気のない時、元気を仕事などで使い切ってしまっている時はどうすればよいのだろうか。何かを行うためにはある程度のエネルギーが必要だする。実際ある程度は必要なのだろう。しかし、人々は本当に必要なエネルギー量以上のエネルギーが必要になると思っている。(私の体験である)

 

例えば、私にとって家から出ることは非常に大変なことだし、朝ベッドから抜け出すのも非常にエネルギーを使用することだと感じる。これは実際にやってみるとそれほどエネルギーを使用するものでないことが自分自身でわかる、しかしそれを実行に移す前までは必ず必要以上(それもとても多大な量)のエネルギーが必要に思えるのである。これは、想像力や恐怖、めんどうなどが生み出す必要エネルギーに対する偽のイメージなのだ。そしてこれを回避するためにできることは行動するだけである。一番初め、つまり、ある作業に対する必要エネルギーのイメージが実際のエネルギーより多いとわかっていない時は、なかなか始めることができない。しかし、一度やって理解したなら、もうそのことについて想像などせず、とにかく行動してしまうのである。これにより、想像よりもお手軽に作業を行うことができる。

 

そしてもし、それでも作業を行えなかったとしたならば、それは真に自分の中にあるエネルギーが枯渇しかかっていることを意味する。その際はとにかく休むことである。多くの人は自分に対して1日の規律を用意しているかもしれない。しかし、その規律さえも本当に外せないものを除いては休んでしまうのだ。そうすることで、エネルギーは回復し、また以前より少し大きな容器になっていることさえある。こうして人は、行動力を成長させていくのではないだろうか。

 

ーーー話したいことーーー

今回は気づけば行動力の話になっていた。自分でもびっくりだ。もともと、これを書き出した時私は、1日部活動があったため疲れ果てていた。だから、これを書くのもやめようかとも思った。しかし、これは自分に課している規律であるから、やめるわけにはいかない。かといって、何も書くことが思い浮かばない、そうだ今の状況を書いてやれ、そう思いいたりこのような結論にまで至ったのであった。書く前よりさらに疲れたような気がするが、まぁあとは瞑想し、眠るだけであるので許そう。それではさようなら。おやすみ

 

 

 

 

学ぶことが楽しい!

 最近勉強がとても楽しく感じられる。勉強が楽しいというと何か変な印象を受けるので、あることを学ぶのが楽しいと表現することにする。(勉強は勉めて強いるもの、つまりあまり乗り気でないことを仕方なく努力してやっている感じがする。それがだめなこととは思わない、勉強も大事な時は大事。けど今回はそれとは違う話なので区別しておく。)

 何を学んでいるかというと、あまりはっきりとコレを学んでいるってことは言えない。強いて言うなら、色んなヒトの考え方、価値観を学んでいるのだと思う。僕が考えたことがないこと、でも考えてみれば同意できるものが世の中には無数にある。もちろん、中には僕はそうは思わない、と感じるものもある。それすらも楽しい。

 人と話すのが楽しくて仕方がない。これまで人と話すのは何を話せば良いのかわからなかったかったから嫌いだった。けれど、この人は何を考えているのだろうとか、どういう生き方をしてきたのだろうか、これからどんな人生を考えているのだろうか、とか考え出すと聞きたいことが湧いてくる。これまでの人生であまり話をしてこなかったからか今はまだ、その疑問を言葉にするのが難しい。自分の頭の中を言葉に変換するのにとても時間がかかるし、変換できないこともある。とってももどかしいけど、少しでもうまく伝われば気持ちが良い。

 

 

 

ーーー話したいことーーー

私は大学生であり、いちおう経済学部に所属している。経済学の考え方で気に入っているのが、とにかく単純化して一つのことについてまず考えること。他の条件は一定にしておいてとにかく、一つの変化だけを考える。以前まではすごく嫌いであった。ホントに世の中を把握できている気がしなかったから。事実、把握はできていないだろう。ただ一部を理解することができている。なにかすごい。何かについて考えるときも、全体について考えると何から考えれば良いのかわからん時があるが、とにかくひとつのことについて考え出すといろいろアイディアが生まれてくることがある。

 

読みたい本がたまっていく、やりたいことが増えていく、でもなぜか時間がないとはあまり思ったことがない。時間がもっとあればと思うことはあっても、時間が足りないと思えないのだ。どういうことなんだろうか。たぶん、満足できているのだろう。今のこの時間の量で(足りてはいない、もっとあったら嬉しいが)十分満足できている。それと、まだまだもっとうまく使えるのではないか。という考えもともにある。まだ、時間をより自分のために使えると思える。

 

 

幸福と不幸

 
幸福は不幸がなければ引き立たない、感じられないものだろうか。私はそうは思わないし、思いたくない。例えば、食事を考えてみたらどうだろうか。美味しい料理はまずいものがないと引き立たないだろうか。まずいものを食うことで美味しいものがさらに美味しくなるのだろうか。そうではないだろう。美味しいものはもとから美味しい、引き立てられるまでもなく、うまいのだ。ではどういうものがまずいものによって引き立てられるのだろうか。それは普通の料理ではないか。まずくもなく、うまくもない、うまいといえないことはないがうまいと言おうと思えない料理。そんな料理であれば、まずい料理を食べたあとに見れば、食べればとっても素敵な料理に見える。これと同様に幸福にも、幸福と幸福であると言えなくもないが幸福とは言えない幸福、この二種類があるのではないだろうか。(より細分化することもできるはずだ)そして、前者の幸福は、不幸を必要としない。(私は悲しみを不幸に属しているものではないと考えている。悲しみは幸福のセットなのである。ある瞬間の幸福はずっと自分とともにあるのだが、それを実際に再体験することはできない悲しみを持つことになるからだ。)
そして、不幸と比較して得られる幸福が後者の幸福なのである。
 
どちらの幸福が良いとかはない。ただ前者の方が普遍なものであると思うし、不幸と比較するというのは私からすると何か残念な感じがする。これまでの自分の不幸と現在を見比べてよりましな生活ができていると感じ幸福を感じるより、比べるまでもなく今の生活に幸福を感じるほうが何か良い気がしないだろうか。
 
他人の不幸と自分とを比較して、自分は不幸かもしれないがあの人よりは不幸ではないから幸福であると考える。それよりは、私はわたしであり、私を受け止めている、満足ではないが納得しており、これからできることをやっていくから幸福である、こちらのほうが何か良い気がしないだろうか。
どちらがよいなんで僕には言えない。どちらにも手助けしてもらいこれまで生きてきたから。ただ前者をなるだけ増やしたいと考えているのは事実である。
 
ーーー話したいことーーー
アランの「幸福論」で感情をコントロールする方法が述べられていた。(正しくは情念である)意志の力は驚くほどの力を持っている、持っているのだが意志の力では感情に抗うのは難しい。だから一度遠回りするのだ。意志の力で体を動かし、無理に運動したり、無理に笑ってみせる。そうすることで、情念を追い出すことができるらしい。確かにそうだろう。笑えば、悲しみを考えるのは難しくなる。すぐに実践できるのにとても効果のある方法だと思う。
 
今回の記事にある重大な問題は「幸福とは、不幸とはなんなのか」ということについて私が理解していないことにあるだろう。わからないが、わからないなりに幸福、不幸について考えて書いてみた。だから、もしかすると前提が異なっているかもしれないなー、と思わないでもない。

特別であること、普通であること

   人はどうして注目されたいのか。私も何かで注目されたいと思うことがある。今は、あまり思わなくなってきたのだけれど、小学生や中学生のときになどはみんなから注目されるのがとっても嬉しくて、様々なことを積極的に取り組んだ覚えがある。他の人とは違う、特別でありたいと思っていたのだと思う。
 
人は普通であることを求めながら、特別であることを求めている。なんて不思議な生物であろうか。周りの人と変わっている人を普通でないと非難し、おかしいとまで言う人がいる。一方、私達がだれかを褒める時の、すごいね、並外れている、天才だ、などという言葉は普通ではないことを表している。つまり、特別であることに対して多くの人は喜びを感じられるのだ。これはどういうことなのか。一方で普通であることが良いことであるように言いながら、もう一方では普通でないことを意味する言葉で褒め合う。つまりは、その人にとってある点では、特別でありたくて、ある点では普通でありたいという願望があるということなのではないか。私が思うに、それを分けるのは、自信の有無だ。自信のあることなら、特別でありたいが、ないことに関しては特別であるということは普通であることよりも下側にいるという印象を受けてしまうため、それなら普通に収まっておきたいということだろう。
 
そもそも特別であるとか普通であるとか考える必要はないのかもしれない。なぜ特別や普通といった考えが出てくるのかを考えてみる。人間は皆、特別な存在である。つまり、ひとりひとりが異なる存在(特別)なのである。みんなが特別であるということは、特別であるということが当たり前(普通)であるということになる。つまり、この点から私達は普通なのである。以上のことより、私達はみな特別であり、みな普通なのであるから、特別や普通等といったことを考える必要はないだろう。
 
 
ーーー話したいことーーー
今回は、特別や普通について自分の思っていることを書かせてもらいました。ただこの考えが、論理が正しいのか。自分ではあまり良くわかっていません。なんとなく自分がこう思うことを書いただけなのです。正しいとか間違っているとかはわかりませんが、やっぱり何かについて自分で考える事(もちろんそこには他の方々の考えが含まれているわけですが)は楽しいことなのだなと思いました。しかし、常に考えているのはしんどいことであり、心がとっても疲れる行いであるとも感じたのでした。何事もほどほどにということですね。

周りの人になにをしてあげられるの

 変な気分です。これはどういう気持ちなのでしょうか。周りの人々がとってもありがたく、愛おしいのに、どうやってその思いを表現すれば良いのかわからない。とってももどかしい。これまで、そんなことやって来てないからどうすればいいのかわからない。誕生日に何かを贈りたいという思いもとっても湧いてきたけど、それじゃあ遅くて今なにかできることをしたい。とってもやりたい。でも思いつかない、それがとってももどかしい。自分にイライラしてしまう。何かこの思いがなくなってしまいそうでとっても不安。(なくなればなくなったで良いのかもしれないけれど)

 

ーーー話したいことーーー

 今日はとても素晴らしい曲を見つけました。中島みゆきさんの「I Love You, 答えてくれ」という曲です。今の自分の思いにぴったりすぎてびっくりしております。ただ、受け取ってくれなくても、贈るだけでいいのかな。なんて思ったりもします。でもそれは、相手のことを全く考えられていないということだから愛とはよべないのかな、って思いもあります。やっぱり、贈りものは受け取ってもらって、喜んでもらってなんぼかな。受け取ってもらえなかったり、捨てられたりすると傷つきますよね。それでも好きなのは変わらないのだから面白いですね。