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今年の目標

 皆さんこんにちは

 今日は今年の目標について考えてゆきます。今年の目標などと言っておりますが、御存知の通り、すでに今年はもう3ヶ月も経っており残り9ヶ月。この短い期間で達成したいこと、またその先にも続いてゆく目標とはどんなものになるのか。今の自分にはわかりません。書き終わるころにわかっているのが理想ではありますが、ほぼ不可能でしょう。少しでもわかれば良しとします。

 さて、実は今年はすでにこれまでのどの年よりも濃厚な一年となっているのです。はじめて恋をし、愛のような感情を知り、失恋を通じて、自分の周りに素敵な人が射ることをこの歳になってようやく知り得た、そんな素晴らしい年なのであります。どれだけ自分が周りに支えられているのか、それを知ることができて本当に良かったです。その反面、私は支えられてばかりおり、支えてこれなかったのではないか、そう感じております。ですから今年の第一の目標は、支えを必要としている人を支えられる人間になることです。それも、嫌々支えるのではなく、自ら支えたい、というか支えずにはいられないと自然と思える人間になることです。ここ最近は、いくらでもこのように思うことができます。しかし、これが本当に続くのでしょうか。無理に続けるのはよくないですが、続ける努力はさせていただこうと思います。

 続いての目標は、一つ目とつながっております。それは自分のやりたいことをするということです。第一の目標が、誰かを支えられる、動き出せる人間になることでした。しかし、それだけを目標にしますと、自分を放置してしまうのではないでしょうか。そして、自分がやりたいことができなかった時、第一の目標のせいにしてしまわないでしょうか。つまり、自分の不満を他人のせいにしてしまわないでしょうか。これはいけないでしょう。自分で他人を支える人間になると言っときながら、それにより他人に責任を押し付ける。これは非常に矛盾していることでありますから、こんなことになってはいけません。だから、第二の目標は自分のやりたいことをするなのです。それも自分の責任で。第一、第二など順番がついておりますが、どちらが優先されるというものではなく、どちらも優先するという考えです。

 今思い浮かぶ目標は以上の2つです。私はこれを具体的に同実行するかという細かい目標が必要と考えます。人を支える人間になるためには、実際に支えることが一番でしょう。これと同じく、自分のやりたいことをするためには、やりたいことを自分で選択して、自分の責任で行うことが一番でしょう。つまり、やれば良いという結論に至ります。至るのですが、これが難しいのではないかと思われる方もいるのではないのでしょうか。私が最近発見したことなのですが(皆さんにとっては当たり前かもしれません)、動き出せばなんとかなるものです。これまで、ああしたほうがいいのではと思った時、全く動き出せませんでした。しかし、最近は思った時、じっくり考えそれでもやろうと思えば動くようにしました。そうすると臨んだ結果に至るとはいきませんが、何かが起こるのであります。良いこと、悪いことが起こるでしょう。しかし、それでいいではないですか。そこには確実に自分が行動できたという結果が残るのですから。

 

 なんやかんや書いてきましたが、今回の記事は、私の今年の目標についてです。それは2つあり、人を支える人間になること、同時に自分のやりたいことを自分の責任でやることです。そのために、それを支える小さな目標がいくつも生まれてくると思いますが、これはこれから先考えてゆきます。それでは今日はこのへんで

 

ーーー話したいことーーー

これまで私は、誰かのことを考えたり、誰かのために行動するのがとっても嫌いでした。なぜならそこには何も残らないし、自分のためにならないと考えていたからです。時間のムダと考えていたのです。そのため、自分のことだけを考えて生きてきました。どうすれば楽ができるか、どうすれば自分が得をするのか。これらのことを考えるのは悪いことだと思いません。ただ、誰かのために何かをするのが別に無駄なことではないのだな、と思うようになりました。誰かのために時間を使うなら、自分のために使う。そう思って生きてきていたのですが、それにより何か素晴らしい時間の使い方ができたわけではありません。それなら、その時間を用いて、誰かを支えられないまでも手伝うことで、自己満足、加えて相手の感謝、笑顔などが見られれば儲けものというものではないでしょうか。

何のために生きるのが良いのでしょうか

  僕らは何のために生きているのか、生かされているのか。僕にはちっともわからない。分かる人にはわかるのだろうか。かといって、何もせずに生きるのも折角もらった命であるのでもったいない気がする。ただ死ぬのが怖いから生きるという考えもある。死ぬのは怖い、でもそれだけのために生きているのかと、自分に問うと、そうではない、と返事してくる。死ぬのは怖いが一瞬のことだから、それだけなら乗り越えられると思う。

 ではなぜ、生きるのか。もう一つ、思い浮かぶのは、死後の世界がどうなっているのかわからないことだ。もし、死後の世界がどういう仕組みになっているかわかっていればどうだろう。例えば、死んだらどんな人もとっても幸せになれると知っていれば、多くの人は自殺するのではないか。例えば、死後の世界は現世より数十倍苦しいことがわかっていれば、必死に生きるのではないか。どちらにせよ、わからないのであるから怖れが生まれる。少し話は脱線するが私達の選択はなんでもこれと同じである。つまり、どんな選択をしても必ず不確実性が存在しており、そこには不安や恐怖が生まれてくるのである。怖くて動き出せないものもいる。というかみんな何かをすることを恐れている。(たとえそれが他人からみれば恐るに足らないものであっても)

 話を戻すが、死後の世界がどうなっているのかわからない。そこから不安が生じ、自分から死ぬ選択ができない人は多いと思う。その恐怖に打ち勝てないために(打ち勝つ必要は別にないのだが)、多大な不満はあれど現世をなんとか生きている。だけれども、私は本当にこんな生き方だけなのか。もし、そうだったとして、このままでいいのか。どうせ生きるなら、生きたいから生きるという選択をしたいではないか。

 どうすれば、生きたいから生きるという選択をすることができるだろうか。生きたいと思うには、生きる目的、理由のようなものが必要だ。全人類の生きる目的となるものがこの世にあるだろうか。実際にはあるのかもしれない。しれないが、私は今そのような目的をしらない。全人類にフィットする普遍的なものがないのならば、個々人にフィットする目的を見つけるしかないだろう。

 もし世界に神様がいて、その神様が生きる目的を教えてくれるならそれにそって生きれば良い。世の中には神様の声が聞こえる人がいるのかもしれない。そこは否定しない。しかし、私は未だそのような声を聞いたことがない。だったら自分で考えてゆくしかないだろう。自分の人生の目的を自分で考え、その目的が本当に自分の人生の目的たるのかを一生を懸けて検証していかねばならない。その時思っている人生の目的をひたすらに実行していく。もし違うと思ったなら変えればいいだけの話。

 ここから、他人の人生を自分が選んではならない、という話につなげたかったのだが、あまりにも無理くり過ぎて自分でもどうかと思ってしまった。しまったのは確かであるが、けど言いたいので言っておく。他人の人生を自分が選んではならない。自分にできることは、提案することだけである。いくら自分が正しいと思っていても、相手から見ると正しくないのだから、無理に押し付けるのは間違いなのだ。

 結局何が言いたいのかだけ言っておくと、自分の生きる目的は自分でしか決めてはならない(神様から教えてもらえる人以外)ということだ。

 

 

ーーー話したいことーーー

 家のリフォームを行っている。リフォームと言っても家族だけで行うDIY(Do It Yourself)ってやつである。(昔DIYのことを大工って意味だと思ってました^^;)肉体労働が多いので、リフォームを進めた日には体がへとへと。身心ともに疲れてしまう。(身心と心身どちらがよいのでしょうか)疲れてしまうのは嫌なことなのだが、その日の入眠のしやすさといったら、高級なお肉のように自然と溶けてゆくような感じなのだ。(比喩表現を使いたかったので使ってみたがなんだこりゃ笑)

とにかく気持ちよく眠れる。これは経験談であるのだが、失恋などによって精神がおかしくなってしまったら、タバコ、暴飲暴食などに頼らずただ体を動かしまくるのがよい。疲れ果てた体ではうまく考えられないし、目覚めると心身ともに少し元気になっているのだ。精神だけが以上に疲れ果てた時は、とかくだめな方へだめな方へ思考が流れてしまい、自分の存在理由がわからなくなったりするものである。そんなときは考えず、とにかく体を動かすのだ。動かすのだー。そうすれば少しはマシになる。私の体験談であるから、保証はできません。

ぐらぐら思考も悪くない

 僕の思考はころころ変化します。これが良いと思ったら、それに対して全身全霊でその考えに突っ込んでゆくのです。そして、新たに素晴らしい考え方が出てきたならば、すぐに突っ込んでゆきます。今はこの性格?がとっても素晴らしいものなのだ、そう思えるようになりました。けれど、以前までなんで僕はこんなにすぐ変わってしまうのだろうか、他の人のように何か一本大きな柱のような考え方はないんだろうか。そう思っていました。自分の芯になるような考えを持っている人は今でもすごい、そう思います。ただ、僕はそうじゃなく、とっても柔軟な考えを持っていて、色んな考えを吸収しながら、そうしながらこれまでの考えも少しずつ寄せ集めて自分なりに良いものを作ろうとしているのだ、そう思えるようになったのです。

 

思い込んでいるわけではなくて、ホントに心の奥から自分のこの考えを受け止められる。どんなに落ち込んでも、揺らいでも、自分の思考の変化が素晴らしいものだと思えます。

思い込みは悪いことではありません。それに気づく過程も素晴らしいし、気づかなくて一生思い込んだらそれは思いに変わるからです。

今回は何が書きたいか、あまり決まっていませんでした。ただ、手の動くままに任せているとこんなへんてこな、何を言いたいのかよくわからん文章が出来上がりました。それでは、読んでくださった方もそうでない方も、楽しんでいきましょう。

 

ーーー話したいことーーー

これまでこのスペースの名前?は「どーでもいいこと」でした。どーでもいいこと、なのか?僕の話したいことであるし、皆さんにとってはどーでもいいかもしれないけど、聞いてもらいたいことじゃないのか。そう考えたわたしは、どーでもいい、なんて書くと、読んでくれる方も読んでくれなくなるのでは。と思い至りました。だから今回から、話したいことという名前にしたいと思います。よろしくです!!!

自分のほんとにやりたいこと

 
 
自分が何をやりたいのか、これはとってもすぐわかる。でもわかりにくい。どういうことか。自分の心に、気持ち(心とか気持ちってどこにあるのでしょうか)に問いかけてみれば、自分が何をやりたいかってことはたぶん教えてくれる。でも、教えてくれたことをやったからといって(想像通りの大成功でも)、必ずしも気持ちが満足するわけじゃない。なぜなら、自分の気持ちは、そのやりたいことを通して得たい何かを持っていることが多いから。例えばよくある話だけど、お金持ちになりたいって心から思う人っていっぱいいると思う。でも、お金持ちになることがやりたいことじゃなくて、お金持ちになってそのお金を使って何かをするのことが本当のやりたいことだと思う。より深く考えてみると、そのお金を使ってやることがやりたいことじゃないこともある。その行為によって、満足感を得たい、充実感を得たい、笑いたい、幸せを感じたいって思ってるのかもしれない。
 
だから、自分の本当にやりたいことはなんなのかって自分自身で考えるのはとっても難しいと思う。自分になんでこれがしたいのか、って問いかけるのはとっても楽しく、辛いことだから。考えているつもりでも、自分の気持ちが自分に対して本心を言わないこともあると思うし。 でも時には、心の奥の奥の声が聴こえるんものだと思う。とっても真剣に聞いていれば、ひとつぐらいほんとのこと言ってる。最初は全然できないかもだけれど、その聴こうとする作業自体に意味があると思うし、聴ければそのやりたいことを達成するのにより良い他の方法が見つかるかもしれない。
 
 
 
今日の(いやほとんどの)記事は自分自身に対して言っています。とっても迷うし、とっても不安になる。自分の進む道、生き方は正しいのか。(正しいなんてないと思っているのに、考えちゃうのはなぜだろう。内心では思えてないのかも、なにか一つの正しい道があるとでも思っているのかな。)
それも自分、けどその自分にプラスして、自分が何をしたいのか少しずつ分かっていければ良いのではないかな。できることをやっていこうと思う。
 
 
ーーーどーでもいいことーーー
今回のどーでもいいことは、自分の文章に、「~だと思う」、とか「~だと考える」とか言い切れないことについて考えてみたい。自分が言い切れないのは、自信がないからだ。だってそうだろう、まだ20年生きてきただけの人間が何を知っているといえるのだろう。でもちょっと待てよ。僕がもし、60歳になったとして、ブログなんかを書いていたとしたら、言い切れるようになっているのだろうか。たぶん、無理だと思う。なぜだろう、みんな色んな考えを持っていると思っているからかもしれない、自分が間違っているのが怖いのかもしれない。(たぶん両方ある、後者の方が大きいかも)
間違っていてもそこで修正すればいいし、間違いだなんて決めるのはとっても難しいことだと思うから、間違いだって指摘してくれた人はとっても真剣にこの文章に取り組んでくれた証でもある。だから、間違いだっていいから、言い切ったほうが良いのかもしれない。これからはちょっと自信がなくても、言い切りの表現を使っていきます。(でも自分でもこの考えはどうなのか、って考えていくことはやめてはいけないっと思っています。)
 
それでは

振られたことを振り返る

振られました。へこみました。と言っても今日振られたとかではなくて、結構最近振られたのです。ブログを始めたのも、そのショックが一つの原因です。(もともと書きたかった、自分の思いを表現したかったということもあります。僕はまだ人前で自分の気持を表現するのが苦手で、怖くてできません。人前で話せますが、本心を話せないのです。だから、第一歩としてブログで本心をだしてゆくことにしたのです。)

振られた当初は、とってもつらく受け入れがたく、もう依存していたと言ってもよいほどでした。時間がたてば少しでも柔らかくなるのかと考えておったのですが、時間が立つほど相手のことを考えてしまうのでした。それではいけないと目の前のことに全力を出して行っておったのです。しかし、なんでこんなことに全力を出しているのか、もっと出したいこと(彼女に対してできること)があるのじゃないかと思い至ってしまった瞬間に疲れ果ててしまいました。

一つ理由として、彼女が僕のことを嫌いだとか、好きな人がいるとかで振られたわけではないというのがあるのではないでしょうか。

 

この心の葛藤をどうにかしなければいかんと思い、自分の考えていること、感じていること、恐怖をすべて彼女にぶつけました。(普通、ぶつけさせてくれないですよね。めっちゃ良いやつに会えたと思います)そうすると、なんだか、楽になりました。何を話したのか、思い出そうとすれば思い出せますが、書かないでおきます。

 

とにかく、とっても楽ではありましたが、悲しくありました。おれじゃだめなんだ。って思ったから。

ところで、彼女と僕の知人にかっこいい男性(心がとってもかっこいいんです、ていうかカッコつけなんです。)がいます。彼女はよく、彼について話すんです。そして、ちょっと嫌なことに、そこから彼がどれだけ彼女を愛しているかが伝わってくるんです。とにかく、悔しい。でも、それでも彼が彼女を幸せにしてくれればとっても嬉しく思ったので、少し意地悪をしました。(意地悪と言ってもお互いにオレの分まで相手を幸せにしてほしい、というようなことをいっただけですよ)この意地悪がどうなるのか、それはわかりません。僕が勝手にお互いが好きあっていると感じただけですから、何もないのかも、ただ仲が良いだけなのかもしれません。

それでも、あの二人がくっついたら自分の感情なんて消えてしまうくらいに応援してしまうと思います。

 

なんか、書くだけでスッキリしました。とっても不安はあります。これから、僕は好きな人を見つけられるのだろうか、この先どうやっていきてゆくのだろうか、ただ本当にしたいことを見つけてゆこうと思えました。それがうまくゆくかはわかりません。実際今回はうまくゆきませんでした。辛いことも、悲しいことも経験しました。でも、それでもそれ以上に楽しいこと、幸せなこと、素晴らしいことを経験できたのです。今はまだとっても辛い、でも彼ら、そしてみんなが幸せになればいいなと心から思えるようになったのは嬉しいことなのかもしれません。

 

ーーーどーでもいいことーーー

彼女に告白することを機に、私は愛について考え始めました。これまで、愛とは無縁でしたが、心に感じるこれが愛なのかと思ったからです。今もそれが愛であるかはわかっておりません。愛とは何かがわからないからです。自分なりに考えてみたり、知恵袋やエーリッヒ・フロム「愛するということ」、ジャンポルスキー「愛とは、怖れを手ばなすこと」という本を読んだりしてもみたのですが、さっぱりわかりません。気づいたら自分の都合の良いように解釈してしまいがちです。これからもどんどん感じていき、考えていければ幸せですね。ただ、愛には、恋人同士が愛し合うものだけではなく、誰に対しても持てるものなのではないか。そう思い至りつつあります。

今日はこれまで、自分のことを話すのってすごい勇気がいるなって思いました。でもちょっとずつでも言っていこうと思います。

 

今回の記事のはじめの「振られました。へこみました。」は中島みゆきさんの今日以来を真似てみました。僕は、変われればいいな、いや変わってやります。もちろん自分の望む方にです!!それでは、読んでくださった方々、ありがとうございました。

この悔しい思いは二度としない

今回はとっても悔しい思いをした話をしようと思います。

 

どんな話か、簡単に言うと焼き芋を買った話です。

奈良県にある山を登ってきました。あまり、高い山ではなかったので、登り終えてから時間があまり奈良県を観光することに。東大寺やその周辺をうろついていると、みたらし団子や唐揚げに続いて、美味しそうな焼き芋が売っておったのです。これは美味しそうだ、とっても良い匂いだ、と思った私と友人(主に私です)はすぐこの焼き芋を買うことに決めました。200円という表示が見えていたので、まぁ安くはないが、観光地にしては安いほうであろう、と思い、ひとつ注文しました。焼き芋屋のおばちゃんはこちらを一目もみずに、とっても手慣れた様子で焼き芋を袋にいれ、測りにのせたのです。そう測りに。

この瞬間、私はすべてを悟りました。ZETUBOUってやつです。

こ、これは200円じゃないやつや。やられたぜ、と思いました。おばちゃんはのせた後すぐに、はい900円。

私は、900円かよ、と言いながら、ただただお金を払ってしまったのです。一度返そうと思いましたができませんでした。

とても悔しい思いをしました。悔しい点は2点あります。たぶん多くの人がだまされており、自分もその手にのってしまったこと。二つ目は、返品できなかったこと。どちらにしても自分が悪いのですが、とっても悔しかった。

 

今回はこの経験を得ることができたので、900円は授業料として納得しておりますが、次にこのようなことがあれば、即刻見破りたい、それができなければ突っ返す所存です。がんばれオレ!!

ということでとってもしょうもない話でした。

 

ーーーどーでもいいことーーー

もうすでに今回の記事自体がどーでもいいことなので何を書けばよいのか困っております。今読みたい本などを挙げておきましょうか。加賀乙彦の「宣告」です。死刑囚が考える生と死という本当に死について考えざるを得ない方々の考えを少しでも知ってみたいなと思いました。私達の誰もが今のところ、死に向かって生きています。にも関わらず私達はそれほど深く死というものについて考えているでしょうか。僕はできていません。ただ、のほほんと生きています。(それができるというのは本当に素晴らしいことなのでしょうね)死についてより考えていくことで、自分自身はどう生きてゆけば良いのか、それがより深くわかるのかもしれません。(どう生きてゆけばいいかなんて、今は全くわかりません。これも自分が納得できるかどうかの問題でしょう。自分がこのように生きてゆこうと思えればそれでいいのです。僕にはそれが見えない。ただそれだけの話しなのです。)

自分の人生は自分のもの

 
今回の記事は最近の私がさもありなん、と思わされることを自分の考えとともに表現したものになっています。まだ大学生ですので、人生の経験が少なく、言葉に重み、説得力が欠如してはいますが、「書きたいから書く」というブログのタイトルどおりこれからも書きたいことを書いていきます。今回は、自分の人生の生き方についてです。
 
 
自分の人生は、自分で踏み出していかなければならない。自分で生きていかないと行けないのだ。もし他人に任せてしまったなら、それは個人というものが喪失したことになるからだ。(個人があるからこそ、自分というものがあるのだからそれを否定することは自分がいないことに繋がると思う。なんか、話が回ってますね。自分→個人→自分このサイクルになっちゃいます。説得力がぁぁ)このことから、僕達は、他人の人生を操作してはいけないことがわかる。同じように個人が喪失するからだ。
自分の人生を自分で生きるためには何をすればいいのか。簡単なことで、自分の納得した選択を行うのである。自分がやりたい選択である必要はない、様々な理由で選べないことはあるだろう。だから、やりたくてもできないなら諦められる、つまり納得して別の選択を選べるだろう。(もちろんそこには後悔というものがあるかもしれないが、本当にできないと理解していれば乗り越えられるはずだ)
 
それでは、私達が他人に対してできることは何か。相手の話を出来る限りしっかり聞くこと(しっかり聞いたとしても相手のことを真に理解することはないだろう、どれだけ同じ境遇でも考え方が全く同じになるだろうか。どこかでズレが生まれていくのではないか。)、そして自分の意見があるなら伝えること。ただこれだけである。これ以上は何もできない。相手が自分の意見に対してどういう判断を下そうが、私たちは何もできない。意見を提案するのはいくらでもやればいいと思う。しかしそれを強制することはしてはいけないのだ。それが、自分の人生を生きるということだから。その人がその人の人生を生きるということだから。そういうふうに私は思う。
 
ーーーどーでもいいことーーー
最近、登山をはじめました。登山と言ってもそんな大層なものではなく、電車でいって、少し歩いたら頂上についているという程度のものです。歩いている時、自分の関心について考えるのが楽しいです。(山じゃなくていいじゃん!!ってツッコミするどい、その通りで何も言い返せません)
 
読みたい本が増え続けております。僕の消化速度に対して、どんどんやってくるものですからもしかしたら一度吐き出してしまうかもしれません。まぁそう焦って読んでもあまりよくはないと思います。おすすめの本を挙げておきましょう。
「喜嶋先生の静かな世界」森博嗣 
という本です。ひろつぐ、だと思っていましたが、ひろし、なんですね。
内容が気になった方は調べてみてください。
感想だけ書いておきます。キシマ先生のような生き方はとってもキレイだと思いました。でも、キレイだけを人生にする必要も別にないのではとも思いました。とにかく、最後の方はあまり救いがないように感じました。ただ、そのことにより彼の生き方がさらに強調され、自分の道を進み続けているように感じさせられ、そこに救いを感じました。
なんかよくわからない感想になってしまいましたが、これまでの人生でトップレベルの感動?、心に響いた本であったことは確かです。図書館で借りた本ですが、アマゾンで注文してしまいました。
今日はこのへんで。