2つの楽しい想像

今回は想像するということについて書きたい。今言っている想像は自分がやりたいことに関する想像、つまり楽しいことを思い浮かべることについてであり、やりたくないものや恐怖についてのものではない。
 
想像には二種類ある。自分に、実行が可能なものかそうでないかである。どちらも無意味、無価値であると言いたいわけではない。どちらもある時には有効だし、あまりやるのがよくない時がある。ただ、前者は勇気を求められることがある。なぜなら自分で行えるから。それをやるかやらないかは自分に委ねられているからである。一度、想像してしまうと、実行しなかったことを何か、誰かのせいにすることができない。想像したあとに、全てが自分に委ねられる。そして、何もしなかった場合、自己嫌悪に陥りやすい。なぜやらなかったのだろうか。このように思ってしまうのだ。だから最近の私は、このような想像をした場合、出来る限りすぐ実行することにした。想像したとき、すぐにできることを考えてとにかくはじめてみるのだ。(とにかく始めるといったが、しっかりと自分とこれをやるべきか相談している。例えば、やって何か悪影響が出る場合、犯罪に繋がったりする場合はやらない。)そうしてはじめてみると、案外すっーと進んでいくものだ。それが全く想像と同じ通りになるかというとそうではないが、別にそれは大事ではない。実行したかどうかが問題だし、想像以上の結果につながることだってあるから驚きである。
 
実行不可能な想像の場合、それは本当にただ楽しむ想像といってよいだろう。妄想といってもよいかもしれない。本当にやりたい放題の事を想像しても何の悪気も罪悪感もなく楽しめる。その想像から目覚めても、楽しかったと思えるだけだ。友達に話してみても楽しめる。ほんとに楽しむためにやるものだと思う。まぁそのなかに自分の願望があることを考えると、自分自身でもわかっていなかった自分の欲がその想像に現れているかもしれない。それが何なのか考えるのも実に楽しいものである。
 
ーーーどうでもいいことーーー
花粉症がつらい。でも、日によってつらさがぜんぜん違う。これは何なのか。その日に飛んでる花粉の量の違いかとも考えた。ニュースの花粉量予想と関連はなさそう(データをとっているわけではないからイメージである)だし、花粉症の友達とつらい時が違うこともよくある。精神状態や自分がどれだけその日花粉症だと認識しているかによって変化しているような気がせんでもない今日この頃。なんでも良いから、鼻水と目の痒さよ止まってくれ。
花粉症って言うけど、花なのか。ちょっとした疑問だ。

自分のしたいことをやらねばならない

僕らは何のために生まれてきたのか。そんな問いに答えることは僕にはできない。なんで、生まれてきたのかなんてわかるのだろうか。いつかわかればその時教えてもらえれば嬉しい。そんなことは考えたってわからない、でも世の中には迷いながらもわかっている人もいると思う。ようは決意の問題であると思う。自分はこれに取り組むために生まれてきたんだそう思えればいいのだ。ぐらぐらと揺れる意志かもしれない。別に揺れてもいい、変わってもいい。ただ、いつかぐらぐらが減っていくものが出てくるのだと思う。私にはまだそれがない。いやあるのかもしれないが、未だぐらぐらしている。

 

それが何であるのかわかるまでに私達ができることは一体何なのか。私は、全力で自分のやりたいことをやることだと思う。自分のやりたいことって意外と定義するのが難しい。急に何かがやりたくなることもあるし、すぐにその気持が消えていくものもある。私の言いたい自分のやりたいことというのはそれをやらなければ将来後悔するだろうと思うもののことである。(ただ、心にやりたいことはそんな後悔するかなんて考える前に動いてしまうものであるとも思う)

 

自分のやりたいことをしようとする時、多くの場合、他人の意志とぶつかる。他人を尊重して自分が諦めるべきなのだろうか。私はそうするべきではないと考える。それはつまり言い訳に行き着き、後悔してしまうことに変わりがないと思うからだ。しかも、その後悔の責任をその他人に押し付けてしまうからだ。

それではこの場合どうすればいいのか。まず、相手がどのような意志を持っているのか知ること、自分の意志がどんなものであるかを知ることが大事だと思う。そして、その意志を知った上で、自分の意志を曲げても良い範囲なのか、どうかを考える。曲げて良い範囲なら喜んで曲げて取り組んでいけばいい。曲げてはいけない範囲なら、それはもう曲げずにひたすらに自分のやりたいことをやるべきだと思う。どれにしたって僕の主張は変わらない、自分のやりたいことをやろう、ということである。

 

自分のやりたいことをやり抜くのは、とても辛いことであると思う。まず、僕自身本当にやりきれたことがあるのかわからない。(自分のやりたいことを一所懸命にやるべき、という考えは本当につい最近思い至ったためである。)でも、今の僕は出来る限り自分のやりたいことを全力でやっていると思う。しかし、これは非常に大変だと思う。気づけばテキトーになってしまうからだ。だから常に意識を自分に集中させ、今僕はやりきれているのかを考え続けないとならない。これを極めた時、何も考えるまでもなく今やっていることに集中して、他に何の考えも入る余地がない状態につながるのだと信じている。

 

ーーーどうでもいいことーーー

iphone7のREDが出るようだ。デザインを見てみるととってもかっこいい。今僕が使っているZenphone2 laserの赤がとっても見劣りするレベルでかっこいい。(まぁ生で見たわけじゃないからホントに格好いいと言いきれるわけではないのであるが)

見てすぐにこれほしい!!って感じた。だから値段を見たんだ。高いんだよ、バカヤロー!って思ったね。もう一度いう、高いんだよー!わかってたけど高かった。これほどまでにお金を出してかっこいいスマホがほしいと思わない私でした。以上どうでもいいこと

 

共産主義は理想論か

ブログはじめました

共産主義について書きましたが、実ははっきりと共産主義を理解できているわけではありません。というより全然わかっていない気がします。まぁでも書きたくなったので書きました。少し長いですが読んでいただければ幸いです。

 

共産主義は私達を幸福にするのだろうか。そもそも、共産主義とは、資本主義を超えた理想的な社会のことだ。理想的というと曖昧だが、全てが平等な社会のことだろう。ここで問題となってくるのは、平等とは何なのか、ということである。平等がわかっていなければ、共産主義という考え方が良いのか、悪いのかどういうものなのかでさえ考えることができない。そこでまず、平等とは何なのかについて考えていく。

 

平等には大きく分けて2つあると思われる。結果の平等と機会の平等である。結果が平等とは、皆の得るものが等しいということである。機会の平等とは、何かを得る、体験する、学ぶことなど様々なチャンスがみな等しく持つということだ。共産主義で求めなければならない平等は後者であると私は思う。なぜなら、人は一人ひとりが個性を持ち、異なることが特徴である。それが素晴らしいことであると私は思う。しかし、結果の平等を求めると、その個性によって生まれるはずの別々の結果がすべて統一されてしまう。これは、個性が失われたことと同義である。だから結果の平等ではなく、機会の平等でなければならないのだ。

 

しかし、ここで大きな問題が生じる。(実際はここで生じているわけではない)それは、人が不満を持つ生き物であり、結果に意識がいってしまった人々は、その結果の違いに問題があると考えてしまう。平等のはずなのに平等を感じられないのである。ここに、共産主義の問題点がある。どうすればこの問題を解決できるだろうか。完全な解決は不可能だと思う。人間は考えてしまうものであるから、でも考えてもそれは違うと思い直せるのも人間である。だから、不可能ではあるが、全く不可能と言い切るのもおしい。

とにかく、この平等に関する問題を少しでも解決するにはどうすればいいか。すべての人が幸せについて考えることだ。(私は人が誰でも幸せを一番に望んでいると考える、それが表面に出ていなくとも、心の奥底では幸せを、助けてくれる人を求めているのだと思う)エーリッヒ・フロムの言葉に、To have or to be()という言葉が出てくる。持つことにこだわるよりも、そうであることに集中するべきだということだ。所有することはなかなか永遠につづくことが難しい、そのため必ず不幸が存在する。しかし、であることには、自分のあり方に集中する、いま、ここを真剣に生きていくのである。いま、ここを真剣に生き続けられたならば不幸になることはない。(ここは少し無理矢理だと自分でも思っています。また考えてみます)

私達がみな幸せとはなんなのか、と考えることで結果が大切でないと知る人が増える。それが唯一の解決策だろう。結果が大切でないという考えが正しいのか、それはわからない。どちらが正しいと思うかは、その人次第である。ただ、多くの人々は何も考えずに結果に幸せを求めていないだろうか。すなわち、幸せについて学べば、過程に幸せを見出す人の数が増える。それによって平等の問題は少し解決に進む。

 

あまりしっかりとした論理になっていない所が豊富ですが、突っ込みながら読んでいただければ幸いです。これを書こうと思ったのは、社会主義共産主義の違いを調べていた時、そもそも共産主義のようなものが果たして生み出せるだろうかと思い浮かんだからです。

(資本主義の問題点は、格差にあると思います。しかし、格差自体を私は問題だと思いません。大きすぎる格差、というより下流の方の機会がとても少ないことに問題があると考えます。)