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何事も続かない

 ランニングをはじめたはずだったのに気づいたら終わっていた。毎朝6時に起きると決めたのに気づけばそんな決意などすっかり忘れ、昼間で寝ていた。そんなことが僕の人生にはよくあります。何度も同じ結果を招いているのにやり方を変えられていない。どうすれば続けられるのだろう。そう考えなかったわけではないが、結局最後に行き着くのは精神論、根性論で、はじめた当初はできるけど長期的には続かないことが多い。其の中で続いているものもあるのだから、と開き直ることもできなくはない。しかし、そこで続いていないものがあまりにも多すぎて開き直るなどできるはずがない。精神論がだめな理由は、僕にとってそのような精神は常に移り変わるものであって興味がすぐ変わることだ。あれをやれば良いのではないか、そう思ったすぐ後には、そんなことなど忘れ別の良さそうなものを見つけているのである。発見という観点からすると素晴らしい才能であるが、身につけるという点から見ると非常に余計な能力である。こんな僕に少しでもできることは諦めることではないか。つまり、発見してしまうのは仕方がないと受け入れるが、それを採用するかは別問題であり、いま実行中のことを考え、保留にするという心構えが必要なのではないか。心構えというと何か精神論という感じがせんでもないが、それ以外に表現が浮かばなかったから仕方ない。

とにかく、まずどれかひとつに絞り、それを最低どの程度続けるかを決定する。そしてその期間は、それを常に心に思い、別の発見があろうとも退け、保留するのが良いのではないか。そして、決めた期間まで続けたならばあとは、自分の自由にするのがよい。続けたいなら続けられるだろう。そしてもう一つ保留したものが溜まっているので次に続けるものを選ぶ楽しみがある。こういうふうに考えると、なんだか保留するのは良い考えに思えてきたのでやってみようと思う。ただ、この保留という発見が身につかないことのないようにしたいと願うだけだ。

 

 

ーーー話したいことーーー

体が疲れ切っていると、自分の考えは悪い方、というより変な方向へ行ってしまいやすいと思う。筋トレした翌日、筋肉痛で歩くのも億劫なとき、ほんとあらゆるものに対して不満を持ってしまいがちなのだ。(その不満が見えるようになると、なんだか自分が面白く感じる)このような経験からやはり、肉体と精神はつながっておるんだな、と感じた。言うまでもなく、体のしんどさというのは直接に精神に影響する。疲れたという感覚自体、肉体から生じたものであっても精神的なものである。

 それでは無理やり疲れていない、元気であると思い込むのが良いのかというとそれも少しはあるがそうではない。大事なのは、休むこと、休みすぎないこと、疲れたら一度放棄することであると思う。

足るを知る

  知足、足るを知るということはとても大切な考え方であると思う。足るを知ろうとしなければ人の欲というのは際限ないでしょう。一度満足しても、その満足感が切れると再び求めてしまうものです。未来の欲について憂うのではなく、今の足るを知ることが大切であるとは思います。思うのです、しかし、同時にもし今の足るを知ることができたなら、次はその足るが失われることを憂いてしまうのではないかと思うのです。

 手に入れられないよりも失うことのほうが苦しみは大きいです。失ったときにまだ手元も残っているもので足るを知ることはできるのでしょうか。今のところ私にはできそうもありません、以前にはあったものがないというのは大きな喪失感を残すでしょう。持つことに意識が向いてしまうのでしょう。持つ時はその安心感からであることに意識を向けられるでしょうが、その安心感がなくなると、であることから持つことに意識が向いてしまうのです。

 長期的に見れば、また足るを知るということを行うことができると思いますが、短期的、つまり失った時には足るを知るというのは私に限ると不可能に思えるのです。短期的である必要がないのか、私がまだ足るを知るということを十分に理解できていないのか、はたまた足るを知るというのは絵空事であるのか、前者2つであることを祈ります。

 

 

ーーー話したいことーーー

 人に寄り添う。相手に寄り添う。これってどういう意味なのか。物理的に言うと、体を近づけることになるけど、そういう意味で用いられるのはあまりないと思う。多くは、心に寄り添うといった精神的なものだ。しかし、心に寄り添うってどういう意味なのか。考えてみれば、うむ、よくわからん。結局これは自己満足ではなかろうか。いくら他の人から寄り添えていると思えても本人が寄り添われていると感じなければまったくもって無意味。(寄り添っていると思っている人自身が寄り添ってあげられていると満足しているだけだ)しかし、この考え方は何か非常に悲しい考え方のように思えてあまり好きではない。自分で言っておいてなんなのだ、という感じだ。

 

 悪人正機説というのがありますが、あの悪人は普段聞いてイメージする悪人とは少し違うのではないでしょうか。悪人正機説の悪人は 、人が生きているだけで悪を積んでいるということを理解している(人が生きるためには必ず他の生命を犠牲にしているため)人間のことをいっており、別に犯罪人であろうがなかろうが関係ないのではないでしょうか。つまりそういう意味では私を含め多くの人々は、日々を生きているだけで悪を積んでいるなどとは考えていないから、自分を善人であると思い込んでいるのではないか。つまり、悪人正機説の悪人とは、犯罪者を指すわけではないわけで、おれは悪人であるから救われるのだという考え方は間違っていると思うのです。

たかが、されど

 世の中すべてのことに対して、たかが~といえるのではないでしょうか。しかし、その次に来る言葉は、されど~、となるのだと思います。何事についても私自身が関わることは広大な宇宙の中では非常に小さなことになります。地球規模のことでさえ小さなことであると言えるのではないでしょうか。しかし、それと同時に私にとってそれがとても大きなことであり、たかがなどとは言っていられないことのようにも思えるのです。

 たかが人生、されど人生。たかがであることは確かに理解できる。でも本当に心からたかがと思えるのかというのが問題です。今の私には思えません。されど、というより、やはり私の人生なのです。だから、存分に満喫したいし、やりきったと思えるような生き方(どんな生き方をすればそう思えるのでしょうか、そんなことを考えながら生きている時点でそんな生き方はできないのかもしれません)をしたいと思うのです。

 

たかがということを知ることで、されどということがとても重要に思えてくるような気がします。人生って大変だと思うこと、と、たかが人生ではあるけれど(されど)この人生って大変であるなと思うこと、とには大きな差があるのではないでしょうか。

何が違うのか、それはあまりよくわからんのですが何か大きな差があるように思わずにはいられないのです。

 

 

ーーー話したいことーーー

 できないことをいくら嘆いたって仕方がない。私たちにはできることしかできないのだから。では何が大切であるか。一つは、やること。とにかくやるのである。もう一つ大切なことがある。それは、できることを見つけること。できることはできることであるくせに、もともとできるとは知らないものがある。できないことを見つけるのは案外簡単だ。なぜなら、やりたいことを一番簡単に最短距離でやろうとすると大概できないことがでてくるからだ。その時にできないことを嘆くのではなく、どうすればできるのかというできることを模索することが大切なのではないだろうか。

山月記を読んで

 タイトルの通り山月記を読みました。初めて読むわけではありませんが、以前読んだ時と印象が全く違いました。前回読んだのは高校生の頃、教科書にのっており、授業でよんだのです。其の頃は、人が虎になってしまうとは変な話であるな、と其の程度の解釈でした。本当にそれ以上でもそれ以下でもない印象だったのです。しかし、今回は全く違いました。(なぜなのでしょう、じっくり読んだからでしょうか。なぞです。)

今回は、虎になってしまった李徴の気持ちに自然となってしまい、虎になってから袁慘に会うまでの一年間をどう過ごしていたのだろうか、野生の心を持ちながらも人間の心を未だに持つつらさとはどんなものなのだろうか、消えてしまう方が楽であるはずなのにそれに対して感じる恐れ、家族のことより先に詩(自分という証になるのでしょうか)のことを優先してしまう人間らしさ?、人間の頃、自分の恥や怖れが自分を磨くことを疎かにしてしまったという後悔、これらのことについて考えさせられました。

 

まず、袁慘にあうまでの一年間のことを想像してみます。まず一番大きな部分は人食い虎であることではないでしょうか。人の心を持ちながらも、その心がないときに人を襲って食していたのです。どれだけ心苦しいことでしょうか。加えてその苦しみを共有できる友がおりませんし、表現さえもさせてもらえません。発散というものができなかったのではないでしょうか。 それでも彼は自殺することはありませんでした。その生活に慣れてしまったということではないでしょう。ここにも自分が消えることに対する恐怖があったのではないでしょうか。他人を殺しているのは自分ではなく虎であるという意識もあったのかもしれません。 彼のつらさは私には想像もつかないものです。私にも辛くなる時がないわけではありませんが、そんな時は誰かと話したり、一人ぼっちになってみたり、人が多い所に行ってみたり、と様々な選択肢がありどれでも自由に選べます。しかし、彼にはその選択肢がない。加えて、その苦しみが普通ではないのですから、そのつらさは私には本当にわかるものではないでしょう。

 人の心がでてくる時間が次第に減っている。これは虎になって人を殺してしまう彼にとって非常に幸福なことであるはずです。しかし、そこには避けようもない恐怖がある。なぜなら、自分が消えてしまうことにほかならないから。自分が消えてしまったところで世界がどうにも変化するまいことは李徴自身もわかっているはずです。しかし、それでも自分がこの世に存在を何も残すことなく消えてしまうことは恐怖であるのでしょう。

 家族の心配を話すことより、先に自分の詩を残そうとしたシーンがありました。非常に魅力的である気がしました。なんとも言えませんが、何か人間らしさのようなものを感じました。やはりそこにも自己の存在を残すということが大きな要因となっているのでしょうが、それが家族より先にくるのがすごい。(別に家族がどうでもよいとかそんなことではないでしょう)

 虎になってしまった原因について推察しているところでは、その原因を自分の恥、恐れにあると言っています。実際にはそれが原因であるとは思えません。それよりも虎になって、もう人間に戻れない。これは人間であった頃にしておけばよかったという後悔でしょう。なぜ自分は進むべき道に向かって努力できなかったのか。それは、失敗を恐れたからであり、自分の恥の部分を隠そうと必死になってきたからです。人とあまりかかわらなかったのも誰かに恥の部分を見せたくなかったからでしょう。李徴の自分を馬鹿にする癖もそれによって自分が傷つくのを避けていたのではないでしょうか。袁慘が友であれたのは、そんな李徴でさえも受け入れられる懐の深さを持っていたからでしょう。

 

山月記を読んで色んなことを考えさせられました。中でも自分の恥、恐れによって今できることを行えないというのは現在の自分にも少なからず当てはまっていることのように思えます。できない理由を考えれば、できなかった時は其の理由のせいにできるし、できたときには自分はすごいと思えます。そこには、失敗というものがありません。ありませんが同時にできる可能性が低下しています。そこまでして自分は失敗を避けたいのか、失敗して傷つけばどうなるのか。そのようなことを考えさせられました。そこまで長い文章であるとは言えないこの作品ですが、その中には幾つもの考えさせられることがありました。

 

 

ーーー話したいことーーー

雨が降っていた。いつもは傘を持っていかないけれど、なんとなく持ってゆく。傘が私を守ってくれたので、べたつくことはなかった。雨もやみ、帰りの電車。私が家についたとき、あいつは私のもとを離れていた。だれか別の相手をみつけていてくれればいいなと思う今晩。

共感から

  歌、詩、小説などの中に表現されている内容が自分のことのように共感できる作品がそこらじゅうにある。他の人はどうだかわからないが、私の場合、そういうものと出会った時、そうそうそういう気持ちなんだよ、って思う。と同時に、自分の共感者を見つけたような気持ちになって舞い上がってしまう。この舞い上がることがだめなのかもしれない。舞い上がった後に、共感できない部分まで自分の経験を当てはめてしまうのである。例えば、心の悲しみを表現した歌があったとする。その中の一部分に自分が共感できるところがあり、それによってその曲がとても好きになる。そして、何度も何度も聞くうちに自分の状況とは全く異なる状況を歌っている箇所でも自分の経験を無理に当てはめて、そうなんだよね、と同感してしまうのだ。さらにこのとき、自分の経験を無理に当てはめている自覚は皆無であるのでなおさら面倒なのである。

 自分が正しく見えていないことを意味しており、心を沈めて、自分の現状を見直せば大概間違った解釈であることは明らかなのである。しかし、その時の自分にはそれが真実であり、何も間違ったことはないと思いこんでいる。自分を曲に寄せているのである。

 

ーーー話したいことーーー

 今のところ人はいつか死ぬ。けれどあんまり自分が死ぬということについて考えることはない。死んでしまうとどうなるのか。今死んでしまうとしたら、どういう気持になるのか。そんなことを考え出すと、寝られなくなる。一秒でもムダにしてはいけないのだなって思えてくる。そして焦って何をすればいいのか考える。だけどででこない。そして、ムダってなんなのかって考え始める。でも答えはでない。

こういうようなサイクルを何度か繰り返している。毎回同じではないけれど、大筋は同じであって、結局何も答えが出ずに、もっとがんばろうという何を頑張るのかさえ明らかにせずに終わってしまうのだ。

さん、くん、ちゃん

 人の名前を呼ぶ時、その人の名前にあった呼び方が僕の中にはある。~さん、~くん、時には呼び捨てが一番あっている人もいる。ときには、どんな呼び方も当てはまらなくてあだ名がもっともよろしいこともある。しかしながら、この違いは何によって生まれてくるのであろうか。

一番大きな要素は、慣れというものだ。ある人をある名称で呼ぶ習慣が身につけばそれが一番その人にあった呼び方であると思ってしまう。はじめて呼んだ時はどれほど違和感があってもだ。

二番目の要素は、名前を呼ぶ側のこれまでの人生である。これまで自分がどう呼ばれてきたか、周りの人をどう呼んできたのか、これらによって決まってくる。

そもそもどうして名前の呼び方が様々あるのだろう。名字で呼ぶか、なまえで呼ぶかの二択は許すとしても、そこに、さん、くん、ちゃん、などといったものがついてくるのはなぜなのか。それほどまでに私達は自分と相手の立場を明確にしたいものなのだろうか。

 

ーーー話したいことーーー

花粉症がつらい。これが花粉症であるのかさえ謎であるのだが、フェキソフェナジンを飲んで症状が和らぐということはそういうことなのだろう。それに目の周りが朝起きると花粉だらけになっている点からもそうであると言えるだろう。この花粉症、もし自分の力で薬に頼らず治せるならばどうだろう。正直そんなことあるのかととっても半信半疑ではあるものの、運動、食事、飲料などに気をつかうだけで改善するとネットで書いていたのでやってみようと思う。もし花粉症が改善しなくとも、私の肉体には何らかの変化が生じるはずであるからそれだけで儲けものだ。問題は、運動、食事、飲料に気をつかう生活を続けられるのかということだけである。

終わりはない

世の中に絶対の真理というものがあったとして、人はそれを知ることができるのか。自分が真理だと思ったとき、自分自身はその先に何があるのかを追求することをやめてしまう。そして、もしそれが真理ではなく、真理への道筋であったとしたらどうだろうか。そして、もしそれが真理であってもそれが真理であるという保証というものを私達は得ることができないのではないか。
山登りについて考えてみればわかりやすい。ある山を登っている時、人はまだそこが山頂でないことがわかる。先に続く道がみえているからだ。そして山頂についたとしても、遠く先に見える山が今いる場所より高いことがわかり、一番高いところがここではないと知る。次に、そこに見えた山に登り、頂上につく。また、他にここよりも高い所があるかもしれない。もしなかったとしよう。そこは、一番高い山であると言えるだろうか。そうであるかもしれないし、そうではないかもしれない。その場所では、わかりえないことなのである。