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習慣への架け橋だー!

 何かをやろうと決めたならそれをやり続けると心に決める必要がある。なぜなら、どれだけ好きなことであっても苦しみや困難があることがよくあるからだ。楽しみだけを感じながら、何かに取り組むことはほとんどないといえる。困難があるからという理由で、やると決めたことをやめてしまうのは時に自分を裏切る行為になりかねない。自分を裏切らないためには、第一に、何をするのか明確にすること、第二に、最低限続ける期間を決めること、第三に、とにかく日々続けることが大切になってくる。前者2つは簡単にできるだろう。(簡単にできるからと言って軽いノリで決めてしまうと後々大変になる可能性はあるが)難しいのは第三の日々続けることである。やることを決めた当初は、やる気に満ち溢れ、簡単にできるだろうと思ってしまう。しかし、人間はすぐに目移りしてしまうものである。(私の20年の人生経験から得た教訓の一つである)それではどうすれば良いのか。これはもう仕組みを作るしかないのではないか。そう私は思っている。仕組みとは、何か。習慣とは少し違う。仕組みは習慣の橋渡しになるものだと思う。楽しくできることは気づけば続いているものであるが、そうでないものは、気づけばやらなくなっている。それを習慣にするために仕組みを用いるのである。

 

仕組みを作るとはつまりやりたくないことでもやってしまう、あるいはやらざるを得ないように生活の中にある作業を組み入れることである。仕組みにも限界はある。時間が限られているのだから、どれだけうまく仕組みを作っても多すぎれば体に悪影響をおよぼすことだろう。ただ私の場合、未だそのような領域には至っていないはずであるから、そのような心配とは無縁である。(私の心配の大部分は、実際にはムダな心配である)

どうすれば仕組みをつくれるのだろう。仕組みを作るには、無理なくある作業に取り組めるようにする、もしくは無理はあってもせざるを得ないように予定を立てる必要がある。例えば、毎日ジョギングがしたいなら、家からジョギングに行くより、仕事帰りにジョギングして家に帰るほうが抵抗がないと思う。そして、電車通勤なら、家から遠い方の車両に乗れば、近いものよりジョギングに移りやすい。

こんな感じにしていくのが仕組みだと思っているが、正直最後の最後は自分の気持ち次第になってしまう気がしないでもない。もっとうまい方法があるのかもしれないが、今はこんな方法しか知らないので、これを続けながら、新しい方法を模索していくつもりだ。ただの根性論より幾分はましであると思える。必要な根性を減らせるという最終的には根性論な仕組み術であった。

 

ーーー話したいことーーー

 世の中いろんな境遇の方々がいる。最近人と話すようになってきたので話す人びとの人生の一部分に触れるようになった。ほんといろんな人生があるのだなって思わされた。中にはそんな生き方辛くないか、なんでわざわざそんな考え方してるんやろ、って思わずにはいられない人もいる。そんな時は、自分の意見を言ってみる。それでだめなら、こういう生き方もあるんだなって思うようにしてるし、思ってしまう。自分の知らない世界が多すぎて、否定できないからだ。

 いろんな境遇の方がいることを以前より理解して、少し変化したのはあまり人の人生を聞いて驚くことがなくなったことだろう。なんだかどんな人生でも、そんなこともあるんだろうな、と思うようになった。もちろん、驚かないからといって、悲しみや喜びがなくなるわけではない。すごい人生には、すごいと思うし、悲しい人生には悲しいと思う。でも、それでも違う世界とか、自分とは違う生き物であるとかは思わなくなった。

 

孤独とつながり

 孤独とは何なのでしょうか。1人であることでしょうか。1人であることだとすると、1人であるということがどういうことなのかを考える必要があるでしょう。今の社会では、人が1人で生きていけるほど、人は強くないはずです。つまり、どんなつながりであれ、必ず誰かとつながっています。そのため、1人であるということを安易に言うことはできないのかもしれません。1人であること、これをより僕なりにより詳細に定義してみます。1人であることはできませんが、1人であると思うこと、感じることはできるでしょう。そして、1人であると感じながら、それが孤独なことであると関連付ける人、これこそが孤独感なのではないでしょうか。つまり孤独とは実際には存在していない人の気持ちなわけです。(存在していないけれども、しているといったほうが良いかもしれません)

 

 そもそも孤独を感じるのはいつでしょうか。多くは、仲の良いものとの別れ(一瞬の別れや永遠の別れなど)の後ではないでしょうか。友と別れたあとは何か心のなかから抜けた気分がします。いまはSNSなどで別れが希薄になったのかもしれません。それでも感じずにはいられないのは、私がSNSが苦手なことの他に、直接会うことの安心感、ここちよさのようなものがとても多いからではないでしょうか。携帯電話がなかった昔、人々はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。別れが当たり前であり、その別れが突然永遠の別れになりえた。そんな時代の人々、孤独を感じていたのでしょうか、それよりも悲しみを感じていたのでしょうか。それとも一期一会を大切にすべての出逢いと別れに喜びを見出していたのでしょうか。様々な人々がいたことでしょう。

 

 今の時代は、物理的に一人になることはほぼ不可能です。ですが、逆に人生の一つ一つにありとあらゆる人々が関わりすぎて、誰も認識できないようになってきている気がします。例えば、一つのパンができるまでありとあらゆる工程を踏んでいます。其の工程ごとに働いている人々がおり、パンを食べる時その人達のことなど頭には浮かびません。何も問題はないのですが、パンを販売している人のことすら知らないということにもなっています。つまり、つながりの糸はたくさん出ているのですが、そのどれもがあっさりと切れてしまうのです。切れはしないから、この表現は少し違うかもしれません。どれも切れはしない、でもどの糸もほとんど私たちには見えておらず、手繰り寄せることができない。こちらの表現のほうがあっていますね。

 

 

ーーー話したいことーーー

自分の夢が少し見えてきた気がする。それは、誰かの夢の手伝いをすることだ。ほんとに一生懸命に、そして楽しそうに夢や好きなことについて語っている人はとても素敵です。僕は話を聞いているだけで、引き込まれてしまい、癒やされます。微笑まずにはいられません。僕は何もしていないのに、何か心地よくなっちゃうのです。羨ましくも思います。自分には今のところ、そこまで熱中することがなくて自己嫌悪してしまうこともなくはないです。ただそれ以上に、話を聞いている時、がんばれって、できることはやってあげたいなって、思わされちゃうんですよね。ただそういう時、手伝えることってあまりないのかもしれません。だから僕はホントに助けを必要としている時に手を差し伸べられる人になる必要があるのです。

今回はアホな感じです

 確率論と人の意志。人の意志によって確率が変化することはあるのでしょうか。つまり、宝くじやパチンコ、その他あらゆる場面で、当たれ!、と願うことで確率に変化は起こるのでしょうか。

 自分でもアホなこと言っている気がしないでもありません。というか言っているつもりです。しかし、考えてみれば、変化が起こる可能性があってもおかしくはないのではないでしょうか。そんなことがあるならば、宝くじや競馬などのギャンブルは成立しないという意見もあるでしょう。確かにそうですね。でも、本当に少ない確率変化が起こっているならば成立する場合もあるでしょうし、それが現在の賭け事なのかもしれません。 コインの裏がでる確率が1/2の時、途方もない数コインをふれば裏が出る相対頻度は実際に1/2に近づくことがわかる。このような感じで教科書などで説明されているイメージがありますが、大概はコンピュータで計測した値でしょうし、人の手で行ったとしても裏がでろという気持ちで振っていないでしょうから、意志が確率に影響を与えているのかは実際のところわかっていないのではないでしょうか。

 

ーーー話したいことーーー

自分でも、今日の記事は変なこと書いていると思いました。でも、まぁたまには変なこと書いてもいいだろうという気分で書きました。(これまでも変なことを書いている可能性はありますが)なんでこんなことを書こうと思ったのか。それは当たり前は当たり前ではない。ということを考えてみたかったからです。世の中に様々なものが当たり前に思いますが、一つ一つ考えてみると、自分はそのことについて何もしらないのです。そういうものがあるのだ、というふうに思うことで疑うことをやめていたわけであります。これがいけないことではないです。というかいいことでもあるでしょう。一々突っかかっていると、生きていけないでしょうから。ただ、すべての物事に対して、なんとなく受け入れるのはどうなのだろう。せめて、自分の気になったこと、不思議に思うことは考えてみたいなと思った次第です。

仏教はよーわからん

 ここ何週間かは仏教について学んできました。学んできたのですが正直あんまりわからない。習うより慣れろって感じがすごいです。まず、真理などあるのだろうか。と疑ってしまいます。相対主義ってやつなのでしょうか。真理などないとしても、真理を求めて突き進むことに意味があるのかもしれませんね。そうすれば、常に自分の意見に自信を持ちながら、間違いに気づけば変化させることができそうですから。

 話がそれましたが、仏教です。この仏教非常にややこしい。伊達に長生きしてませんね。学ぶのであれば根本から行ってやろうと、原始仏教を調べているのですが、うーんわからん。やはり実践あるのみなのだろう。けれど、悩んでもいい、考えろって雰囲気は嫌いではない。生きていることは苦である、たしかにそうなんだけど、輪廻転生をそこまで信じ切っていないからかこれぐらいの苦しみはありなのではないか。そういうふうにも思う。苦しみ、楽しみ、幸福、幸福が失われること、これらをまとめて人生になるのではないかな。そしてこれらのことは人によって全く基準が違うのがおもしろい。例えばある人は、幸福を感じることを、他の人は苦しみとしてとらえることができる。僕は、苦しみよりは幸福を感じるほうがよいのではないか、と考えていますが、別に幸福より苦しみでもいいと考える人がいてもおかしくない。なんだかとっても不思議な考えに思えはするがおかしくないのです。

仏教は、僕にとって謎だらけのものであるけれど、それでもおもしろいからこれからもよろしくお願いします。それと、仏教と並行して、西洋哲学を少しかじってみるのも悪くないと思っています。西洋哲学は小難しいかもしれないけれど、仏教とは違い、しっかり誰でも理解できる道筋をたどっているはずですから。

 

 

ーーー話したいことーーー

少し更新が遅れたのには理由が。彼が帰ってきたのです。台風とも呼ばれている彼が。帰ってくると家中を荒らして、あっという間に消え去る彼が(そこまでひどくはないかも)彼のせいにするのも少しひどい気もする、というか書かなかった僕が悪いので彼には何も言えません。すべての責任は自分にあるし、それをどのように受け止めるのかも自分次第。悪く受け取るのもよし!しかし、悪く受け取ったならば、何か手を打たねば。よく受け取ったもよし、それならそれを信じて突き進むべし。それが良いのかな。

死んで後悔はするだろう

 今死んでも後悔しないことをしたほうがいい。そんなこと言われなくとも、後悔することよりしないことをしたほうがいいって誰もがわかってる。でも、僕にはそれが何なのかがわからない。だから、できることをするし、やりたいことをするし、やったほうがいいと思うことをやっている。それが死んだ時、後悔しないことであるとは思えない。思えないけど、死んだ時、後悔する生き方というのはそんな悪いものなのか。後悔なんざいつだって、どんな時にだってできるだろう。たとえ、後悔しないことをやっていても死んだら後悔してしまうのではないか。後悔するのは悪いことではない、後悔してもそれでも受け入れられるということが大切なのではないか。つまりは、やれることをやれるだけやるしかないのではないか。やれるだけやっても、もっとうまくできたかも、という後悔はでてくる。けれども、やった自分を受け入れられるということが大切なのだ。

 

 

ーーー話したいことーーー

一つ一つの自分の行動を見た時、死んでも後悔しないなんて思えるか。そんなことができるのは、もともと死ぬことに対して恐怖がなかったり、死を受け入れている人だろう。死んだ時後悔しないなんて難しいことだと思っているけれど、僕の場合は後悔するけどしないと思う。一つ一つの行動に対してはいくらでも後悔できる。けど、死んだということに対しては、死んだのかというふうに思える気がする。(実際はとても死にたくない、という風に思ったりするのかもしれないが、死んでみないとわからない)死んだ時はそんなこと大切ではなくて、要は生きている間、自分が自分のやっていることを受け入れられるかの問題なのだと思う。

何事も続かない

 ランニングをはじめたはずだったのに気づいたら終わっていた。毎朝6時に起きると決めたのに気づけばそんな決意などすっかり忘れ、昼間で寝ていた。そんなことが僕の人生にはよくあります。何度も同じ結果を招いているのにやり方を変えられていない。どうすれば続けられるのだろう。そう考えなかったわけではないが、結局最後に行き着くのは精神論、根性論で、はじめた当初はできるけど長期的には続かないことが多い。其の中で続いているものもあるのだから、と開き直ることもできなくはない。しかし、そこで続いていないものがあまりにも多すぎて開き直るなどできるはずがない。精神論がだめな理由は、僕にとってそのような精神は常に移り変わるものであって興味がすぐ変わることだ。あれをやれば良いのではないか、そう思ったすぐ後には、そんなことなど忘れ別の良さそうなものを見つけているのである。発見という観点からすると素晴らしい才能であるが、身につけるという点から見ると非常に余計な能力である。こんな僕に少しでもできることは諦めることではないか。つまり、発見してしまうのは仕方がないと受け入れるが、それを採用するかは別問題であり、いま実行中のことを考え、保留にするという心構えが必要なのではないか。心構えというと何か精神論という感じがせんでもないが、それ以外に表現が浮かばなかったから仕方ない。

とにかく、まずどれかひとつに絞り、それを最低どの程度続けるかを決定する。そしてその期間は、それを常に心に思い、別の発見があろうとも退け、保留するのが良いのではないか。そして、決めた期間まで続けたならばあとは、自分の自由にするのがよい。続けたいなら続けられるだろう。そしてもう一つ保留したものが溜まっているので次に続けるものを選ぶ楽しみがある。こういうふうに考えると、なんだか保留するのは良い考えに思えてきたのでやってみようと思う。ただ、この保留という発見が身につかないことのないようにしたいと願うだけだ。

 

 

ーーー話したいことーーー

体が疲れ切っていると、自分の考えは悪い方、というより変な方向へ行ってしまいやすいと思う。筋トレした翌日、筋肉痛で歩くのも億劫なとき、ほんとあらゆるものに対して不満を持ってしまいがちなのだ。(その不満が見えるようになると、なんだか自分が面白く感じる)このような経験からやはり、肉体と精神はつながっておるんだな、と感じた。言うまでもなく、体のしんどさというのは直接に精神に影響する。疲れたという感覚自体、肉体から生じたものであっても精神的なものである。

 それでは無理やり疲れていない、元気であると思い込むのが良いのかというとそれも少しはあるがそうではない。大事なのは、休むこと、休みすぎないこと、疲れたら一度放棄することであると思う。

足るを知る

  知足、足るを知るということはとても大切な考え方であると思う。足るを知ろうとしなければ人の欲というのは際限ないでしょう。一度満足しても、その満足感が切れると再び求めてしまうものです。未来の欲について憂うのではなく、今の足るを知ることが大切であるとは思います。思うのです、しかし、同時にもし今の足るを知ることができたなら、次はその足るが失われることを憂いてしまうのではないかと思うのです。

 手に入れられないよりも失うことのほうが苦しみは大きいです。失ったときにまだ手元も残っているもので足るを知ることはできるのでしょうか。今のところ私にはできそうもありません、以前にはあったものがないというのは大きな喪失感を残すでしょう。持つことに意識が向いてしまうのでしょう。持つ時はその安心感からであることに意識を向けられるでしょうが、その安心感がなくなると、であることから持つことに意識が向いてしまうのです。

 長期的に見れば、また足るを知るということを行うことができると思いますが、短期的、つまり失った時には足るを知るというのは私に限ると不可能に思えるのです。短期的である必要がないのか、私がまだ足るを知るということを十分に理解できていないのか、はたまた足るを知るというのは絵空事であるのか、前者2つであることを祈ります。

 

 

ーーー話したいことーーー

 人に寄り添う。相手に寄り添う。これってどういう意味なのか。物理的に言うと、体を近づけることになるけど、そういう意味で用いられるのはあまりないと思う。多くは、心に寄り添うといった精神的なものだ。しかし、心に寄り添うってどういう意味なのか。考えてみれば、うむ、よくわからん。結局これは自己満足ではなかろうか。いくら他の人から寄り添えていると思えても本人が寄り添われていると感じなければまったくもって無意味。(寄り添っていると思っている人自身が寄り添ってあげられていると満足しているだけだ)しかし、この考え方は何か非常に悲しい考え方のように思えてあまり好きではない。自分で言っておいてなんなのだ、という感じだ。

 

 悪人正機説というのがありますが、あの悪人は普段聞いてイメージする悪人とは少し違うのではないでしょうか。悪人正機説の悪人は 、人が生きているだけで悪を積んでいるということを理解している(人が生きるためには必ず他の生命を犠牲にしているため)人間のことをいっており、別に犯罪人であろうがなかろうが関係ないのではないでしょうか。つまりそういう意味では私を含め多くの人々は、日々を生きているだけで悪を積んでいるなどとは考えていないから、自分を善人であると思い込んでいるのではないか。つまり、悪人正機説の悪人とは、犯罪者を指すわけではないわけで、おれは悪人であるから救われるのだという考え方は間違っていると思うのです。